武漢大学のサクラは中国でも有名だそうだ。大連出身の文彬さんに聞いたことがある。その武漢のサクラと我が萱野長知と関連があるという話があって興味深い。萱野長知孫文関係資料集に「バンドの桜」と題した一文が掲載されている。書いたのは鈴木鋗一郎で、昭和三十九年のある日、日比谷の陶陶亭の囲碁室で萱野長知の長男長雄氏と話しているときに「中国から視察旅行に誘われている。一緒に行きませんか」というのだった。

 長雄氏によれば、漢口の揚子江の岸に桜があり、その桜は萱野長知が日本から贈ったもので、「花の時にぜひ見たい」と言った。長雄氏はその話から二カ月後に死んでしまったので、鈴木氏も武漢の桜を見ることは果たせなかった。

 武漢はもとは武昌、漢口、漢陽の三つの都市が揚子江沿いにあり、1926年に統合されて武漢市となったが、1911年10月10日の辛亥革命はその一つ武昌の町で起った。萱野長知は革命軍を指揮していた黄興から「武器を調達してすぐに武昌に来い」と促されて、11月6日には武昌に入った。

 萱野は日本で武器と汽船を調達して武昌に向った。海軍の加藤友三郎に護衛を依頼したが、断られている。しかし、船が東シナ海に差し掛かると、いつの間にか駆逐艦が一隻、汽船の後を追跡し、揚子江を遡り、無事に目的地に到達したという。萱野がどれほどの武器を調達したのかは分からないが、汽船を調達したぐらいだから十丁や二十丁の鉄砲ではなかったはずだ。辛亥革命の前にも萱野は広東省に武器を運び込む経験をしている。その時は、清朝軍に見つかりそうになり、目的を果たせなかったが、今回はどうやら成功したようなのだ。

 武昌の対岸の漢口は岸田吟香が目薬「精錡水」を大陸で販売するために楽善堂を設けていた。アジア主義者の荒尾精が出入りし日清経済研究所を上海に設立するきっかけも漢口にあった。大陸の交通網の中心は今も昔も武漢にあった。東西を流れる揚子江は東シナ海と四川省をつなぐ、南の広州からは武漢を経て北京につながる鉄道が早くから敷設されていた。

 萱野がいつ、漢口の桜を植えたのかは分からないが、どう考えても辛亥革命の後であらねばならない。そうなると漢口の桜は100年前後の歴史があってもおかしくない。文彬さんの話では、桜を見ると日本を思い出し、拒否反応を起こす中国人が少なくないのだそうだ。だが、この漢口の桜ばかりは武昌蜂起で黄興とともに戦った萱野の思い入れがあり、日中が対立する以前のそれこそ友好の桜だったと言っていいかもしれない。