ヤジロウ(弥次郎、1511年? – 1550年?)戦国時代の1548年、フランシスコ・ザビエルを日本に招いた人物。日本側の資料からはヤジロウの存在は必ずしも明らかではないが、ポルトガルやローマ法王庁に残る書簡では、日本の最初のキリスト教徒として記されている。
 室町時代末期から東アジアでは倭寇として恐れられた海賊が海上貿易を支配していた。日本人だけでなく、中国や朝鮮、沖縄の海民も倭寇勢力を担っていたとされる。そんな中、ポルトガルとスペインが東洋に進出し、キリスト教布教に力を入れていた。
 ザビエルはスペインのバスク人。フランスで神学を学び、ヨロラらとともにイエズス会を結成し、ローマ教会の東洋布教に乗り出した。ポルトガルのアジアの最初の拠点はインドのゴアで、次いでマレー半島のマラッカに教会を築いた。
 ヨーロッパ側の資料によると、薩摩の商人だったヤジロウが殺人事件に巻き込まれ、1542年、薩摩の港に停泊していたポルトガルのアルヴァレス船長に救出を求めたという。ヤジロウは片言のポルトガル語が話せたようで、自らの殺傷事件の償いのため、キリスト教に興味を示した。船長はマラッカにヤジロウを連れて行き、そこでザビエルとの出会いがあった。
 ヤジロウはゴアの学校でキリスト教とポルトガル語を学び、パウロ・デ・サンタフェの洗礼名を受けた。ザビエルはヤジロウとの交流から未知の島国ジパングに興味を示し、1549年、ヤジロウを伴って薩摩で布教の礎を築き、島津氏の知遇を得た。島津氏当初はキリスト教の好意的だったが、仏教徒の反発で薩摩での布教を断念し、平戸に渡り、さらに山口に布教の拠点を築いた。
 この時点でヤジロウとザビエルとの直接のやりとりは途絶えるが、ザビエルが本国に度々送った日本に関する書簡にはヤジロウを教養人として高く評価しており、後に書かれたフロイスの「日本史」などに日本での布教に対するヤジロウの役割が克明に記されている。
 ヤジロウは薩摩の根占の池端弥次郎だったという説が濃厚ではあるが、墓誌に遺された記述は死亡年が1528年となっていて、それが事実ならザビエルと出会えるはずもない。ただ『ザビエルを連れて来た男』の著者、梅北道夫氏は、薩摩でのキリスト教禁教のとがめを逃れるため、わざと死亡年を改ざんしたと主張している。
 いずれにせよ、1550年前後は明朝が海外貿易を禁止していた時期。種子島に鉄砲をもたらしたポルトガル人たちは厦門の海賊、王直のジャンク船で来航したことが知られている。王直はその後、平戸を拠点に東アジアの貿易を仕切る大商人の一人だったように、薩摩、五島列島、松浦、平戸などの商人が琉球や大陸の商人たちと相携えて交易の中心的存在だったことは確かなようだ。
 呂宋助左右衛門や山田長政らが活躍した時代はもう少し、後になるが、16世紀中頃、室町幕府が崩壊寸算だった時代に西国の大名たちは、東南アジアとの貿易に活路を見出し、貪欲にヨーロッパの文化や宗教を受容しようとした。イエズス会としては、ヤジロウなくして日本布教はなかったかもしれない。ヨーロッパ勢にとって、ジパングのヤジロウは時代を切り開く寵児だったはずだ。(萬晩報主宰 伴 武澄)