今日の夜学会のテーマは「香港返還から20年」。午後7時から、場所はいつものはりまや橋商店街。
7月1日、香港返還から20年になる。その時、僕は香港にいて、感慨に耽っていた。一つはアヘン戦争から150年の植民地支配がようやく終わったのだという思い。そして中国が約束した50年の香港の自治はどうなるのかという問題。期待と不安が僕の中で行き来した。「港人治港」という鄧小平の約束はまがりなりにも続いている中で、若者を中心に香港独立の意識が浮上している。香港がどうなるのかという問題は中国がアジアで生きるのかという試金石でもある気がしている。返還の熱気から20年、忘れ去られた香港問題を考えたい。
1997年7月5日「 香港を訪ねて」
毎日、雨だった。特に2日から3日にかけては豪雨が見舞い、50年の観測史上最大の400-500ミリの降雨量を記録、各地で土砂崩れが起き、交通網は寸断された。地元紙は「黒雨」と表現した。日本人の間では「天が泣いている」という表現もあった。 30日と1日はまさに香港中が祇園祭りのような賑わいで、私がカウントダウンを待った蘭カイフンという西洋人が多く集まる街では、満員電車並みの混雑。汗と雨でぐしょぐしょになった人々が酒に酔い、「香港」「香港」のシュプレヒコールを繰り返した。ビル街を「ウォー」という声がこだまする異常な雰囲気だった。いつのまにか私も「香港」を合唱していた。めでたいのが、明日からの不安がそうするのか分からない。
そこから、10分ほど徒歩で海の方に下ったセントラルでは民主派の人々が午前零時をはさんで集会を開き、返還後の言論の自由の必要性をアジっていた。午前零時を過ぎても警察の介入はなかったことに観光客の私は若干、感動した。民主派は2日にも大規模デモを敢行したが、弾圧はなかった。
返還式が行われたワンチャイのコンベンションホールでは、粛々と儀式が取り行われていた。ユニオンジャックが下ろされ、五星紅旗が掲揚された。思えば155年前の1842年、この地にアジアで初めてのユニオンジャックが掲げられてから西欧列強によるアジア侵略が始まった。南京条約は1862年の北京条約につながり、日本の明治維新を引き起こす大きな契機となった。
香港の租借はフランス、ドイツ、ロシアによる中国侵略の引き金となったことは歴史の事実である。ロシアは1858年愛グン条約で黒龍河以北の清の領土を手中にした。中国だけではない。英国は1877年にインドを併合。フランスは1887年、インドシナを併合した。155年。ようやくアジアから「列強」が去る記念日でもある。
ユニオンジャックが下りた後の午前零時40分、チャールズ皇太子とパッテン総督はブリタニア号で香港を去った。多くの市民はその様子を家のテレビで見ていた。私もそんな感慨をもって香港という地で歴史的転換期を迎えた。
しかし、私の中では、次に起こる解放軍の進駐と英国の撤退はまったく別の次元でとらえられていた。
ほとんどの市民も返還後の午前6時の解放軍の進駐を見るまでは眠りにつけなかったはずだ。実は、香港での豪雨はそのときに始まった。これは誇張ではない。豪雨の中を直立不動の人民解放軍の兵士がトラックに乗って整然と進駐した。この風景はその日、夜までテレビが繰り返し放映していた。解放軍は、着飾った小学生の旗に見送られて深セン市内をパレードした後、国境を越えたが、香港領内に入ってからも市民からそこそこの歓迎を受けていた。歓迎ばかりではなかったかもしれない。不気味な存在の解放軍はどんな風体をしているの興味をもって沿道に並んだ人も多かったに違いない。 ただ国境を越えるあたりから雨の量が増した。
共産・中国を迎えた香港の人々はそれぞれに違った感慨を持ったに違いない。一括りで語ることはできないだろう。私は、1日には新しい香港であるチェックラップコック空港の建設風景を見て、翌2日は孫文が生まれた中国の中山県を訪れた。
中山県では、何事のなかったような雰囲気だった。孫文の生家は観光客も少なく静かなたたずまいを残していた。借り切ったタクシーの運転者がわずかに「返還のお祭りで商売があがったりだ」と息巻いていた。経済特区の珠海市は建設ラッシュのさなかで、「97香港回帰」のカウントダウンの表示が「99マカオ回帰」に変わっていた。一日に3回も国境を越えて出入国のはんこを6回押してもらった。珠河デルタの各都市には香港から多くのフェリーが就航しており、ボーダーレスさながらの光景を体験した。
香港で染色工場を経営する香港人の友人には、新空港にかかる世界最大の鉄道併用橋「青馬大橋」と新しいハイウエーを自慢のジャガーでドライブしてもらった。75歳の父親は満面笑みで返還を「よかった」と喜んでいた。解放軍の進駐を見てどう思ったかと聞くと「誇りに思う」という。
息子の方は「中国人として返還は当然と思うのだが、1日の朝、香港の新しい赤い旗を見て複雑な思いにとらわれた。赤という色はどうもね」「でもこれからわれわれが責任をもって香港を経営しなければならない」と気を引き締めていた。
ここらあたりが大方の香港人の中国返還に対する思いではないかと思う。いままでは、英国の敷いた路線上で物事を判断してきたのだが、「港人治港」の標語のとおり、香港人の自治に対する自決意識がなければ、それこそ中国側のいいなりの政治が行われるに違いない。世界各国の香港に対する目は「中国が香港をどう統治するか」という視点しかない。すべての論調が「港人治港」などありえないという前提に語っている。しかし、1週間の旅で考えたことは少々、意を異にする。香港人は中国がせっかく約束した「港人治港」という特別行政区の政治形態について、傍観的であってはならない。自らが政治に関わるという意識の高まりが今まさに香港に必要とされているのではないか。
中国は「港人治港」を約束しているし、いまのところ高圧的な態度をあらわにしているわけではない。確かに89年の天安門事件で示した人民への弾圧は人々の脳裏から離れてはいない。しかし、あれは8年も前の話。中国では、大陸を恐怖のどん底に陥れた文化大革命の嵐ですら12年後には「改革開放路線」に転じた経緯がある。中国が同じ過ちを二度、三度と起こすのだろうか。(終)