ウー・オッタマ(1878-1939)ミャンマー(当時ビルマ)独立運動創設者の一人で、ミャンマーのガンジーと称されたこともあった。ビルマ仏教青年会(YMBA)を結成し、「仏陀の教えを中心に青年が団結・奮起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる」(「JAPAN」)と説き、民衆を鼓舞した。

 ミャンマー西部のアラカン地方のシットゥエの出身。16歳で得度し、インドで学んだ。その後ヨーロッパ、日本などアジア諸国を歴訪し、独立運動家と接触、ミャンマーの植民地からの解放運動に邁進した。

 日露戦争から5年後の1910年に来日。浄土真宗本願寺の法主大谷光瑞を訪ね、徒歩で東京へ旅行した際、名古屋で松坂屋の伊藤宅の葬儀に遭遇、伊藤家に滞在し、当主だった次郎左右衛門の知遇を得た。次郎左右衛門の後ろ盾で日本に3年間滞在し、東大で教鞭を執り、仏教哲学とパーリ語を教えた。また宮崎滔天らアジア主義者たちと交流、中国の革命家孫文との出会いもあり、独立運動に対する大きな刺激となった。日本ではその大きな体躯とするどい眼光から怪僧の異名をとった。

 日本での体験をまとめた「JAPAN」は当時のミャンマーの青年やインテリに広く読まれ、日本に留学する学生が急増した。帰国後、インドの国民会議派と連携を取りながら反英闘争を開始、独立運動のリーダーとなった。

 19世紀初頭までミャンマーはコンバウン王朝が支配する大国で、現在インド領となっているアッサム地方も支配していたが、3度にわたるイギリスとの戦争で植民地化された。1886年には英領インドに併合され、退位させられたティーボ・ミン国王はインドのゴア州のラトナーギリに配流された。イギリスは多くのインド人を入植させ、ミャンマーを間接統治しようとした。農民たちはインド人高利貸しに土地を奪われた上、米の流通権も奪われてしまった。

 ミャンマーの独立運動の特徴は仏教が中心となって点である。オッタマのビルマ仏教青年会とオッタマに影響を受けたウ・ソーテンの仏教徒団体総評議会(GOBA)が中核となって、学生運動に火を付けた。

 一方、オッタマの弟子で仏教徒だったサヤ・サンはタラワデー地方の農民を率いて百姓一揆を起こした。サヤ・サンは「正義のために戦うものは仏の加護により死ぬことはない」と農民たちを鼓舞し、一揆は全国規模に広まり1930年には植民地時代最大の暴動に発展した。

 1921年、イギリスが政府誹謗罪でオッタマを逮捕した際、公判に向かうオッタマを拝もうと群衆が終結し、集まった女性たちが跪いて長い髪を道に敷き詰めた逸話はミャンマーでは伝説となっている。

 オッタマは三度、投獄され、1927年に釈放されると今度は納税ボイコット運動を起こし、今度は就寝禁固刑に処され、1939年に獄死した。

 オッタマやウ・ソーテンの運動はオンサンらによるタキン党(主人の意)に引き継がれ、ビルマ独立義勇軍に発展する。1948年、独立後、ミャンマーでオッタマの名は長く忘れ去られていたが、2015年1月、ヤンゴンのカンダウ・ミンガラー公園がウー・オッタマ公園と改名され、その名が歴史に復活した。