3月3日(金)の夜学会のテーマは「一升瓶の誕生」です。午後7時から、はりまや橋商店街イベント広場で開催します。少々寒いですが頑張ります。

たぶん酒などを入れる硝子瓶で一番大きいものが一升瓶だろう。酒、醤油、味醂などを入れるものだが、こんな大きな瓶はいつから存在するのだろうか。むかし、今日と伏見の大蔵酒造の清酒博物館を訪ねたとき、館長さんに聞いたことがある。答えは「分からない」だった。江戸時代から一升枡はあったし、磁器の一升入りはあったが、瓶に入れて販売するようになったのは大正時代のことだった。大阪のガラス瓶会社がアメリカの製造メーカーに特別に発注したのが始まりだった。その一升瓶が普及した理由は分からないが、たぶん日本人の気性に合致したのがこの大きさだったのだろうが、関東大震災でガラス瓶がほとんど割れてしまった後に一気にシェアを拡大したというのが真相のようだ。 明治時代、日本にもガラス瓶製造会社はなかったわけではなかったが、自動製瓶機はなく人工吹きで1本ごとに製造していた。こうした状況を打破したのが、大阪天満にあった徳永硝子製造所だった。二代目の徳永芳治郎は大正11年に弟の栄二と善四郎をニュージャージー州ハートフォードのハートフォード・フェアモント社に派遣した。自動硝子器製造装置では世界的に名を馳せていた。特許料含め当時の金で40万円でハートフォード式製瓶機械を購入した。半人工機械吹きでつくった一升瓶の見本をアメリカの技師に見せ、そのサイズでできる自動機械はできないか相談した。 翌年9月、関東大震災が発生、関東にあったガラス瓶というガラス瓶は割れてなくなっていた。徳永らの全自動ガラス瓶製造機械は大正13 年6月に到着、10月には一升瓶の製造にめどをつけた。背の高さが40センチもある巨大な瓶を全自動で製造するのは世界でも画期的なことだった。 当時、人工吹きでは二合瓶を吹くのに職工13人が10時間で3000本しか造れなかったのが、一台の機械で24時間に2万1500本も造れるようになったというからすごい。全自動によって寸法が安定しただけでなく、品質も格段に向上したという。