人物往来 アジアの義や任侠に生きた頭山満
頭山 満(1855 – 944年)明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者。玄洋社の総帥。朝鮮の金玉均、中国の孫文、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなどアジアの民族主義者・独立運動家を支援し、大きな信頼を得た。
幕末、福岡藩士・筒井亀策の三男として福岡市で生まれ、母方の頭山家を継ぎ、頭山姓を名乗る。16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む興志塾(高場塾)に学び、進藤喜平太、箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う。1876年の秋月の乱、萩の乱では旧藩士らとともに蜂起し投獄される。西南戦争後、開墾社を創設し、自給自足の生活を送りながら、自由民権運動の中心地だった高知に渡り、立志社の運動家と交流する。1878年、福岡で向陽社(翌年玄洋社)を結成し、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。
日本の帝国主義的なアジア進出を後押しした右翼の大立て者との一方的見方もあるが、西郷隆盛がそうだったように、生涯アジアの義や任侠に生きた数少ない 日本人と記憶していい。思想や行動の根底に反西欧的頑なさを持ち続け、アジアにおける日本の優位を掲げながらも、常に強者の立場は弱者を守るためにあると いう信条を貫いた。
頭山の活動の背後には、進藤喜平太(第二代玄洋社社長)や、箱田六輔(第四代玄洋社社長)ら福岡の豪商の絶大なる資金協力があった。また、頭山の柔軟な思考の証左として、中江兆民との交遊や大杉栄への支援など思想的に偏りのなかったことを誇りとした。
ア ジアとの出会いは1884年、朝鮮独立党の金玉均がクーデターに失敗して日本に亡命した時に始まる。神戸の旅館で金にその後の支援を約束し、資金援助し た。玄洋社史に「大いに東洋前途の風雲を詠じ、日韓これも同胞国なり互いに相提携し、相扶翼して覇を唱へざるべからずと互いに相許す百年の友の如し」とあ る。
孫文やベハリ・ボースへの支援は並々ならぬものがあった。孫文を助けた宮崎滔天兄弟、山田良政兄弟、萱野長友らの背後で犬養毅ら政治家を動 かしたのは頭山だったし、ベハリ・ボースがインド総督の暗殺に失敗して日本に亡命した際には、イギリスに身柄を引き渡そうとした日本政府に強硬に反対し て、ボースを中村屋にかくまったのも頭山だった。
日韓併合では、玄洋社が目指したのはその後の植民地ではなく、「合邦」という理想主義だった。 満州国建国にも頭山は反対していたとされ、満州国皇帝溥儀が来日した際にも歓迎行事への参加を拒否した。日中戦争の時も憤慨し、あくまで蒋介石との和解を 目指そうとしたといわれる。
1978年の日中平和友好条約締結のため、園田直外相が北京を訪問した際、空港に出迎えた廖承志中日友好協会会長が真っ先に探したのが頭山満の孫で園田の秘書をしていた頭山興助氏だったというエピソードは有名。廖承志の父親、廖仲愷は中国国民党で孫文の片腕だったのだ。
1944年、御殿場の山荘で死去し、葬儀委員長は玄洋社出身で元首相の広田弘毅がつとめた。墓は青山墓地と福岡市にある。