愛新覚羅 溥儀(アイシンギョロ・プーイー、1906 – 1967年)清朝12代、最後の皇帝、満州国皇帝。清末期に2歳10カ月で即位、4年後に辛亥革命で退位した。自伝『わが半生』によれば、「わけのわからぬまま三年間皇帝をつとめ、わけのわからぬままに退位した」。後に満州国皇帝になり、世界史にその名を残すことになった。

 光緒帝の弟、醇親王載灃の子として北京に生まれるが、3歳で宮中入りし、父母の存在を知らずに育てられた。波乱の人生の幕開けは即位から始まる。1908年、西太后の意向により宮中に入る。翌日に光緒帝が死去し、後継者として即位した。その次の日に、西太后の死が訪れた。当初、死期が近く「自分より長生きさせたくなかった」と考えた西太后による毒殺説が流布された。

そんな光緒帝死去の騒ぎから3年、1911年に辛亥革命が勃発し、清朝は崩壊した。翌年、孫文が中華民国成立を宣言し、袁世凱の調停により、溥儀の退位が決定した。しかし、不可解なのは、溥儀は退位後も紫禁城で暮らし続けたことだった。中華民国は、皇帝退位の交換条件として紫禁城での居住と年間400万両の支給を認めていたため、紫禁城内での溥儀は引き続き多くの家臣にかしずかれる”皇帝”だった。中華民国大総統の袁世凱が帝政復活に失敗した後の1907年、張勲の清朝復辟により皇帝に復帰したが、10日で退位するなど軍閥勢力に翻弄された。

紫禁城での生活はイギリス人家庭教師ジョンストンから、西洋式教育を受け、自転車や電話など最新の生活用品に囲まれ、西洋の影響を多分に受けた。特筆すべきは、この時期、中国の貧しい人々のために度々、義援金を送っていたことである。関東大震災の際にも財宝を日本のために送った。
次の転機は1924年にやって来た。北京政変で馮玉祥が北京を支配し、溥儀とその側近たちを紫禁城から排除したため、溥儀は日本国公使館の庇護を受けることとなり、翌年、天津租界に移った。天津時代は内外の有力者に接近し、自ら復辟の可能性を模索したものの、折りから始まった蒋介石による北伐で中国が統一されると清朝復活の夢は遠のいた。

1931年の満州事変によって、溥儀の人生に再び明るい兆しが見えだした。関東軍の特務機関長土肥原賢二に満州国元首就任を持ちかけられ、側近らの反対を押し切って、満州国執政に就任することを決意する。清朝の故地である満州での新国家建設は、わけのわからぬままに即位し、退位した溥儀にとっては見果てぬ夢だった。

満州国建国の2年後の1934年、溥儀は満州国皇帝に就任した。満州国は五族共和、つまり、日満蒙中鮮の各民族が協力して国づくりをすることを標榜したが、満州国の実権は関東軍に握られ、自らの親政がままならなかった。

やがて日中戦争が勃発し、第二次大戦に突入するが、満州国は戦場から比較的遠かったことから戦禍は比較的少なかった。この間、溥儀は日本を訪問し、皇室から暖かいもてなしを受け、弟の溥傑は侯爵嵯峨公勝の娘浩と結婚するなど日本との関係を強めた。

日本の敗戦とともに溥儀はソ連に抑留され、1950年、中華人民共和国に身柄を移され、撫順の政治犯収容所を経て、1960年、特赦によって釈放された。北京植物園で仕事を得て、静かな余生を送った。著書『わが半生』は清末から軍閥時代を経て日本による満州国経営までを語った貴重な現代史である。(萬晩報 伴武澄)

自伝『わが半生』