日本樟脳株式会社を知っていますか。樟脳は樟を原料とし、防虫剤として使われていましたが、明治時代にセルロイド製法が発明され、写真フィルムにも使われ世界的に爆発的の需要が拡大しました。樟の主な産地は鹿児島、高知、和歌山、台湾などで日本がほぼ独占的に生産していました。この樟脳に着目したのは鈴木商店の大番頭だった高知出身の金子直吉でした。土佐が世界に誇れる産業史の一角です。以下、ネットからの転載です。
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 この会社は大正七年二月当時に存在した七社が合併したものである。金子直吉ならびに三井物産の藤瀬、竹田文吉、藤沢友吉、落合牛太郎その他多数の発起人によって創立された。資本金は六百万円である。
 この会社は本邦産粗製樟脳を原料として精製樟脳を製造し、主として欧米、インドその他海外に輸出ならびに内地売りを業とする本邦唯一の精製樟脳会社である。
 金子が明治十九年神戸鈴木商店に入店以来、樟脳の事業ならびに商売を非常に熱心に研究した。明治三十年頃時の台湾民政長官後藤新平伯に対し、本邦特産品である樟脳を専売にする必要を力説したことが動機となった。明治三十三年に、まず台湾に、それに引き続いて明治三十五年に、内地に樟脳専売局が生まれた。また金子は明治三十五年に神戸市雲井通五丁目にあった住友の樟脳精製工場を買い受け、この工場の一部に居住した。また、鈴木商店総支配人として非常に多忙であったにもかかわらず、朝夕この工場を巡視し、従業員を励まし、樟脳精製の品質改良と技術の進歩に熱心な努力を払った。この工場が現在の日本の樟脳会社本社第一工場である。これ以来、日本精製樟脳は世界でその名声を博し、外貨獲得に多大な貢献をしたのである。
 金子はこの他に本邦の樟脳の前途のために百年の計を立て、九州、四国、紀州等の各地に樟樹楠の植林を盛んに実行した。後に帝国樟脳株式会社を設立しこの事業を承継させた。なおまた樟脳生油から最も有利な方法で再製樟脳を採集する研究に成功し、後に再製樟脳株式会社を設立しこの事業を承継させた。
 なおまた世界的に樟脳の需要が旺盛になった大正の初期、上海に支那樟脳株式会社を設立し誰よりも早く中国樟脳に先鞭をつけ、その需要に応じ国策に大いに貢献した。このように金子は樟脳の植林―山製―再製―精製等を一貫させ、徹底的に樟脳事業に熱心な努力を払い、多大な貢献を行った。その努力絶倫には驚くとともに我が樟脳界の恩人であることを痛感する次第である。前記七社とは、鈴木商店樟脳工場、竹田文吉が経営した旭樟脳会社、藤沢樟脳、神戸樟脳会社、葺合樟脳会社、台北にある台湾精製樟脳会社、および三井物産が持っていた粗製樟脳である。それらは、海外輸出取扱商権等をひとつにして各社の無益な競争を避け、また、粗製よりもかなり多くこれを精製して輸出したいという国策上の見地から合併されたのである。創立当時から鈴木商店系の持ち株は五割、三井、竹田、藤沢、三者で五割だったが、昭和二年鈴木の整理に際し鈴木の持ち株は少しばかり減少し四割三七五となった。それでも今なおこれは鈴木の後継会社が所有している。