Dr. Bamow

 バー・モウ(1893-1977)ビルマ(ミャンマー)の独立運動の先駆的指導者。第二次大戦中の1943年8月、日本軍政下で独立を果たした時の首相となったが、日本の敗戦とともに日本に亡命、戦後も政治活動に参画したが、軍事政権下で軟禁状態に置かれるなど不遇な晩年を送った。
 英国統治下、ラングーンの裕福な家庭に生まれ、ラングーン大学、カルカッタ大学を卒業後、ケンブリッジ大学に学び、1924年、ボルドー大学でビルマ人として初めて哲学博士道を得た。帰国後は弁護士となり、1930年、英国支配を揺るがしたタワラデー暴動では独立派の擁護に回り政治家として頭角を現した。
 1937年、英国がビルマをインドから切り離して自治領政府を編成した時にシンエタ党(貧民党)を率いて”初代首相”となったが、まもなく第二次大戦が勃発し、戦争協力を拒否したため、投獄された。
 第二次大戦では日本軍の支援を得たアウンサンらによってビルマ独立義勇軍が編成され、日本軍のビルマ攻略作戦に協力し、バー・モウは監獄から救出された。その後、軍政下ではあったが、フィリピンと共に独立を宣言し、国家元首兼首相として組閣した。ビルマ政府は連合国に宣戦布告した。
絶頂期は東条英機首相が提唱した大東亜会議への参加だった。満州国の張景恵総理、フィリピンのラウレル大統領、タイのワンワイタヤーコーン親王、中国汪精衛政権が東京に集まり「アジア人によるアジア」がうたわれた。この会議ではオブザーバー参加した自由インド仮政府のチャンドラ・ボースとは反英勢力として協力関係を築いた。
 1944年、インパール作戦の失敗で東南アジアでの日本軍は劣勢に転じ、ビルマ政府の日本への協力は微妙な関係になった。アウンサンが率いたビルマ国防軍は日本軍に反旗を翻し、バー・モウ政権は事実上崩壊した。
 バー・モウの名を歴史に残したのは晩年に書いた『ビルマの夜明け ビルマ独立運動回想録』(Breakthrough in Burma、横堀洋一訳、太陽出版)である。その中で「われわれの植民地からの解放は、1943年に英国が初めて敗北を喫し、ビルマから去ってわれわれが独立を宣言したときから始まる」と書き、独自の戦争史観をつづっている。
 また、戦後のビルマ史について「物語は半分しか語られなくなった」とし、反英的なものはすべてぬぐいさられ「初めから終わりまであふれるほどの憎悪と反日感情と反日の声のことまでつづられていった」と批判し、「われわれは戦争中のもっとも重要な歴史的業績のひとつを現実に否定してきた」とも書いた。
 バー・モウは戦後、新潟県の寺で数カ月の潜伏を送り、結果的に占領軍に出頭したが、アウンサンのように最期まで日本を捨てることはなかった。1977年にランブーンのビクトリア湖畔の自宅で死去したが、「『ビルマの夜明け』は日本人に読んでほしかった。アジア人によるアジアを忘れるな」という言葉も残した。