四十年もの昔、私が藤原岩市少佐(現在中将〉と相携えて乗り出した危険ではあったが堂々たる冒険、そしてその間共に獲ち得た成果、共に分ち合った失敗の数々など、彼との結びつきの思い出や、又我々の愛国的闘争において結局体験が余儀なくされた屈辱さえも、今となっては私の生涯で最も素晴らしい一節となってしまった。
 藤原少佐は、北部マレイのジャングルに私を訪ねて来た最初の日本軍将校であった。共同作業開始後、日ならずして我々両者の間に完全な相互理解の誕生を見たのだが、第二次世界大戦中(一九三九~四五)我々がインド独立のため、極東において発足させた一大政治運動の檜舞台の中心へ私を押し出した日本軍機構の主因となったのも彼であった。そして又、我々両人の制御外にあった不可思議な運命の魔手によって、私が忘却の暗黒界へ葬り去られようとした時、私を訪れた最後の客人は、なんの因果の巡り合わせか、ほかならぬ彼であった。
 最初に私が彼と会った時、彼の顔面は大きな希望で輝いていた。だが、最後に会った時の彼は、苛酷なまでの幻滅と悲哀、そして落胆にさいなまれた形相で、顔は止めどなくほとばしる涙で覆われていた。傑出した人物との出会いで、最初と最後の印象は、我々人生の中で忘れ難い重要なものである。私にとってこれらの印象は特に重要なもので、私の心の自にはいつも生き生きと残っている。……最初の印象は非常な楽しみと、うれしい驚き、最後の印象は強烈な悲壮と、いじらしい光景であった。
 最初の会見は、アロルスターから数哩へだてた小さな町クアラナラン近傍のジャングルの中で行われた。一九四一年一二月一四日の午後、私がクアラナランのサウダガル・デン氏を通じて日本軍司令部へ送った文書に対する返答として、藤原少佐が護衛もなしに、単にギアニ・プリタム・シンと大田黒両通訳と土持大尉を帯同して私を訪れた。最初ギアニ・プリタム・シンが私に自己紹介し、ついで藤原少佐を私に紹介した。私達の出会は、あたかも我々はお互いに旧知の仲であり、大の仲好しででもあるかのようなものであった。一方は日本軍の将校、他方は英陸軍の将校、二人の心なごむ会見と会同は、結局インド国民軍の誕生という大きな結果をもたらす前触れとなったのである。
 当時の我々は三十を僅かに過ぎた若輩で、横溢する愛国の熱意と冒険心をかかえ、光輝ある大戦のためには生死をかえりみず凡ゆる危険を冒す用意があった。我々両人の意気は、愛国の信念と計画、希望と計画、それに歴史的冒険の夢ではち切れんばかりに満ちていた。私自身にとって、……後日想起したのだが……我々の初対面は、奇しくも一年前の同日私の結婚式が挙行された縁起のよい日、しかも正確に同じ時刻に行われたのであった。結婚が私の人生の転機であったように、私の藤原少佐との出会いと心の統合は、その後私の人生金行路に図らずも徹底的変化を招来する触媒現象的効果をもたらしたのであった。だが、この変化は確かに紆余曲折の伴った運命ではあったが、私はこれまで決して後悔はしなかったし、事実私は現在の立場に幸福を感じている。
 私はこの会見後間もなく、部下五〇名を伴いアロルスターへ移動した。藤原少佐は、われわれとの折衝を目的とするF機関と呼称する機関を創設した。私の部下は〝F〟の一字を冠した腕章を支給された。そして暫時にして、我々は当初から日本軍の一部ででもあるかのように、彼等と極めて密接な協同作業に従事することになった。まず、我々の司令部を設置し、新しい環境になじみ、そしてアロルスター市に法と秩序をもたらし、平和回復のため日本兵に加勢した。
 藤原少佐は情勢の変化に至極幸福感を味わっているように見受けられた。彼の顔面には、あたかも彼将来の夢の車輸が毅然としたレールの上に乗ったかのように、精神的満足の笑をたたえていた。我々は夜間長時間協議に時を過した。
 私は今でもはっきりと記憶しているのだが、会談が開始されて間もなく、私は少佐に対し「あなたの人生の中で最上の念願は何ですか」と問い尋ねたところ、少佐は間髪を入れず「日本陸軍の将校として、私はいつも最高の死に場所を探しているのだが、今ではインドの自由獲得闘争で死ぬのが私の最高の念願です」と答えられた。この彼の言葉は、政治家共通の常用語と異り、彼の心底からの発言であり、私は深く感動を覚えた。
 私達の討議は一週間以上連続に行われ、その間、インド国民軍の編成、東洋におけるインド独立運動の開始等に関する数々の微妙な点が友誼的に解決された。その間私は少佐に対し、当時ドイツ滞在中のスリ・スバス・チャンドラ・ボースを東洋に迎え、この運動の指揮を仰ぐことの重要性を執拗に強調した。
 私は討議を続けている間、彼は知的で機敏、臨機応変の才に富み、しかも情報に頗る精通した青年将校の印象を受けた。その上彼は開放的で、高慢と偏見の弊は聊かも持ち合せていなかった。常に穏やかで平然とし、騒ぎ立てることなど一度もなかった。そして又、彼は相手の意見を同情的に評価する素晴しい能力を持っていた。
 彼の極めて俊敏な洞察力は、口語の背後に潜む無音語の意味を解することが出来た。我々の眼に映る物の正体は、単にその物の形体だけによらず、それを観察する我々の位置と角度をも考慮に入れる必要がある。論点を異なる角度から偏見のない公平な態度で観察することの出来る彼の傑出した能力は、我々が逢着したいろいろな難問題に対し、何時も鮮かな解決をもたらした。
 私はその後多くの著名な日本人と会見し、重要事項に関して論議する光栄に浴した。しかし、現に私が何等誇張することなく言明し得ることは、私に最も強い感動を与えたのは外ならぬ藤原で、会見日ならずして我々相互間に深い信頼感と自信、そして理解が確立されたのは、すべて彼に帰するものであったということである。両者聞の会談内容は藤原少佐から逐一山下司令官に報告された。司令官は問題に関する藤原少佐の役割と、その進捗状況について大変満足していた。
 或る日司令官が私を茶会に招待したい旨申し入れて来た。私は少佐とギア二・プリタム・シシに伴われ、アロルスターの総司令部に到着した時、山下司令官は藤原少佐の正式な紹介を待たずに、直ちに父らしい愛情の籠った態度で懇ろに私を抱擁した。そして私が母国解放のため率先闘争を決意したことを心から祝福すると同時に、この崇高な運動のために凡ゆる援助を惜しむものでない、と日本政府を代表して力強く約束してくれた。山下将軍がこのような態度と信績をもって私を引見したのは、藤原少佐の事前準備によるものと容易に察知し得た。
 日本軍に協力するため私について来たインド兵達は、その頃敗残兵が各自の所属連隊を求めてアロルスター周辺のジャングルを放浪していたインド兵を収集するため、各地へ派遣された。日没には我々のキャンプの人員は約三〇〇名に増え、三日後には士官を含め千名以上に増強した。藤原少佐自身の不屈の努力によって、一九四一年一二月三一目、山下将軍は麾下の全部隊に対し、日本軍の俘虜となったインド兵全員を私に引渡すよう命令を下した。この命令により我々の任務は大いに促進助長され、兵力は日々増強されるようになった。
 翌年一月クアラルンプール陥落時この数は五〇〇〇を越え、二月中旬シシガポールが占領された頃は、将校を含むインド兵一〇〇〇〇名がインド国民軍に参加した。同市の正式降伏は二月一七日に行われ、ハント大佐が英軍司令官を代表して四五〇〇〇名のインド軍将兵を日本軍代表藤原少佐へ引渡した。そこで少佐は、彼等を私に引渡し、同時にインド軍将兵を前に極めて感動的な演説をもって、彼等の母国解放のためインド国民軍に入隊するよう熱心に勧告し、日本政府は凡ゆる援助を惜しむものでない旨を保証した。彼の演説は極めて感動的なものであり、聴衆は又同等にそれを歓迎した。おかげで、私の演説も期待通りの効果を収めることが出来たのは言をまたない。
 一九四一年一二月中旬から翌年二月中旬シンガポール陥落までのマレイ、シンガポール全戦争期間、私は藤原少佐と日夜を共に過した。そして我々相互間に熱烈な友情と敬愛の念が生じ、言うなれば、離れ難い親友となった。国塚中尉と伊藤氏の両人が日本人通訳として常時私に所属することになり、私と起居を共にした。
 伊藤氏は当時一八歳位の青年で、責任感の強い気立のよい性格の持主であった。これら二紳士は何時でも直ちに我々の会談を通訳する任に当った。我々はほとんど毎日のように、何らかの新しい問題と取組まねばならなかった。我々両人の心境は、言うなれば、丁度火打ち石のようなものであって、意見の些細な摩擦は直ちに我々の行動線を補導する非常に心強い灯火と化するのが常であった。換言すれば、肉体的に分離した実在ではあったが、知的、感情的精神的に我々二人は単体であった。我々の頭脳から発散する思考さえ一致していた。
 二人は非常によく働いた、が藤原少佐は私よりも尚一層激務に携わり、ギア二・プリタム・シンのインド独立連盟組織を援助するため、布教精神を以って驚天動地の大活躍を展開した。一般民衆を相手に確固たる組織の基盤を構築することは、私の場合のように軍律厳しい将兵を取扱うのと異なり遙かに難かしい仕事であった。しかし、少佐は職業軍人を背景としながらも、この種タイプの仕事には、私の見受けたところ、全く適材適所、見事に調和していた。彼はダイナミックで魅惑的な個性と、難局に直面したインド民間人に対する同情的なアプローチによって、瞬く闘に彼等の異常なまでの信頼を獲ち取り、日ならずして彼等は少佐を単に日本軍の一代表としてではなく、彼等自身の親類縁者の一人として遇するようになった。
 インド人は、マレイ、シンガポールの戦争擢災地全域において尊敬と信頼の念をもって遇され、強姦、殺人又はインド人所有の財産の略奪等、我々に通報された事件は皆無であった。この好ましい状態のすべては藤原少佐に負うものであって、インド系全住民は、彼がこの運動で果している役目に対し深甚の敬意を表していた。
 シンガポール陥落後、彼の任務は益々増大したが、彼は不退転の志と不屈の勤勉を以って激務を見事に遂行していた。三月中旬、我々が東京会談に出席する以前に彼は既にマレイ、シンガポールで非常な名声を博していた。当時、現地で特に知名度の高かった日本人は僅か二名であった。その一人は司令官山下大将で、他の一人は藤原少佐であった。少佐の高い評判と偉業は、日本軍部内一部で嫉妬心をかもしたが、これは当然と言えばその通りであった。現在山下大将の名は徐々に忘れられつつあるが、藤原少佐の名は、幾万のインド国民軍の将兵と、インド独立連盟の会員及び日印運動の目撃者にして現存している数知れぬ人々の間で、未だに当然の敬意を以て愛情こまやかに記憶されている。
 一九四二年のなかば頃には、インド独立連盟は日本軍統轄下、全域に亘り正当に組織され、又インド国民軍は、軍律厳しく完全武装の愛国精神の旺盛な軍隊に改編されていた。万人の予想を越えて、このような強力な愛国勢力へと変貌したこれら運動の急速な発展は、日本の権威筋を大いに驚かした。
 と同時に(真の理由は知る人のみぞ知るだが)これら大運動体は少佐藤原ではなく、彼よりも尚一層上級の少将の階級を有するものに担任させるのが適当と判断したのであった。要するに、この運動に心身を打ち込んだ挙句あのような恐るべき勢力へと発展させた当事者が、既定のゴールを目指して更に先導を続行するには、余りにも小物であり、余りにも下級将校だと考察されたことは、全く運命の不幸な戯曲化でしかない。
 藤原少佐は人を引付ける魅力と、軍事的能力の外に政治的先見の明と、頭脳の適応性を兼備した逸材であった。彼はこの偉大な政治的、軍事的体系を、非常な忍耐と素晴しい努力をもって……言うなれば煉瓦を一つ一つ、石材を一つ一つ丹念に積み上げて構築したのであった。彼は又運動各構成部門の気質、雰囲気及び感情等を完全に把握し、それら部門を確固たる統一勢力に結合させる手段方法に精通していた。彼は奇跡を成就した。彼の非凡稀なる才幹と包容力は、階級によらず業績と創作を基盤に評価さるべきであった。
 私の意見では、藤原少佐の転任は本質的誤算であって、重大な危機招来の主因となり、後には私の逮捕と国民軍からの分離と進展したのであった。まず最初藤原少佐は少将によって交替され、次いで少将は中将によって代えられた。軍上級将校の誰もが、非軍事的、半軍事的又は政治的職責に適合するとは限らない。上級将校の多くは概して過剰に厳格で、又見解に柔軟性を欠き、特に従前何等交渉のなかった外国人の感情とか、所感又は抱負等を理解することは総じて容易なことではない。従って、意見の齟齬が発生した場合、彼等の態度は頼むに足らず、なかんずく、日本軍による空前の勝利が達成された全盛期においては尚更であった。
 藤原少佐は軍総司令部に転任された後も、時間の許す限り暫々私を訪ねてくれた。彼は本来の性格と習性上、全力を傾けて新任務と取組んでいるようだったが、しかし私には、彼は仕合わせに又精神的に満足しているようには見受けられなかった。天は彼に、高度の政治的ゴール達成を意図したかのように深遠な理解力と固有の才能を授け給うたのだが、周囲の事情が彼からその機会を奪い去り、遂に軍司令部の型にはまった日常の仕事へと放逐したのであった。
 或る日私は「新任務をどう思っているか」と彼に質したところ、彼の答えは「かなり容易な仕事で、又量も大変軽くなったが、私としては大きな象の尻尾であるよりも、小鳥の頭でありたいね」であった。
後任の岩畔将軍は新編成の将校からなるチームを帯同して責務を引き継いだ。軍事的に評すれば、彼は有能で知的な将軍で、又彼なりの紳士であった。だが、彼の権能と手腕はどうであれ、藤原少佐とは比較すべくもなかった。彼のアプローチの仕方と仕事のスタイルは全然違っていた。又以前にインド人を相手に仕事をした経験はなかった。知的、精神的交流の結果折角築き上げた日印相互間の問題に関する密接な協力と分担は、彼の指導のもとで重大に阻まれるようになった。そして、結果的に両者はお互いに疑念を抱きはじめたのであった。
 小蟻によって開けられた大堰堤の小穴は、早期に修理きれない限り、後に厖大な損害を招く致命的な破れ目へと容易に拡大する。日印間に誤解が発生し始めた時、若し藤原少佐がもとへ復帰するようなことがあったら恐らく事態は好転したであろうが、日本側はこの線に一考だに与えようとしなかった。のみならず、日本側の態度は日増しに硬化し、我々の勢力を然るべきサイズに削減し、INA運動の形態と役目は、日本側の希望に即応するものである旨を我々に強要することに決した。
 果してこれは私等と直接交渉に任じた彼等独自の希望に則した行為であったのか、若しくは、数千哩遠隔の地で実際何が起っているかを完全に把揮していなかった東京の権力者に依る高圧的な指令によったものか、私には未だに判然としない。スバス・チャンドラ・ボースの東南ア到着の希望も持てず、又日本側からそれに就いて何等の約束や保証も与えられなかった。
 一一月には日印両者聞の見解の相違と疑惑が遂に表面化し、事態はいよいよ重大な危機へと進展することとなった。一二月初旬のある夜、藤原少佐は破綻を未然に喰い止めようと秘密裡に私を訪ねたのだが、それさえも、事態収拾までは行けず、断絶を遅延させたのみであった。
 一二月第二週に至り、我々インド側はほとんど逆転不可能な線にたどりついた。私は完全に希望を失い、進退全く窮まり死を覚悟した。しかし、徒にいけにえの山羊の運命をたどるより、死を以って殉難者になろうと心に決めた。私が母国に悪名を冠することに屈する筈はなかった。その結果、一九四二年一二月二九日私は逮捕され、終戦まで孤独に朽ちるべく僻地へ隔離された。私の逮捕後INAに何が起ったか、何が残ったかは真実悲話に属するので、言葉尠なければ、それに越したことはないと思う。
 藤原少佐と私は、運命の悲情な手によって我々の育児から無下にかどわかされたのである。インド国民軍は我々両人にとって単なる軍事的又は政治的勢力以上のものであって、言うなれば我々が創造した小児のようなもので、盛んに滋養物を与えて育成した我々の肉体の一部であった。
我々が構図を案出し……最初は幻想、後にキャンパスに絵筆を走らせ、遂に美麗な作品を住上げたのであった。我々が舞台から姿を消した後、多くの養父母等がこの小児の面倒を見たのだが、養親は所詮養親で、突の両親に取って交り得ることは極めて稀である。
 運勢の推移は予断を許さない。虹は所詮雲と雨風あっての虹である。僅か一年数ヵ月前我々両人は意気揚々と歴史作りに乗り出したのだが、結局両人共歴史の罹災者となってしまった。史上、勝者はいつも……少くとも期間に正義派と見做されるのが普通だが、革命の場合、例えそれが真実のものであっても、若し失敗すれば反乱と極めつけられる。併し如何なる反乱でも成功すれば歴史上革命と呼称される。歳月は人を待たない。そして歴史の行進には終着地などというものはあろう筈がない。路は続く。そして旅行者は時には袋小路へ迷い込み進退極まる。私は流罪に処せられ、ジャングルへ放り込まれたが、藤原少佐はその軍事的、政治的ドラマの悲しむべき最後を……その主役の一人としてではなく、ただの傍観者として目撃することになるのであった。
 私の逮捕されて数ヵ月後、INAを元の戦力と士気への復帰工作が完全に失敗した頃、日本軍最高幹部はスバス・チャンドラ・ボースをドイツから東洋へ移動させることに決した。だが、悲しいかな、これは遅きに似たりであった。にも拘わらず、ボースは弱体化したINAの指揮に任ずるため、潜水艦による非常に危険な航海の後、一九四三年七月の第一週シンガポールに姿を現わした。
 彼の東洋出現は、インド人に対し新しい希望と共に強烈な感動を与えた。彼はINAの士気高揚と軍再編成に最善の努力を傾注した。三ヵ月後彼はインド仮政府を樹立し、英米に対し宣戦布告を実施した。だが不幸にも、その頃はこの劇的な行動が成果を期待し得た絶好の時機と心理的効果は既に消え去っていた。戦地と軍作戦舞台における変動の激しい軍事的運勢は異なる形態へと移行し、戦局は既に連合軍に有利に転換しつつあった。当時英軍は日本軍に比し凡ゆる点で遥かに優勢な厖大な兵力をインド、ビルマ戦線に集結していた。
 第二次世界大戦中最も恐るべき会戦の主たるものは、インパールとコヒマ戦場で展開された。日本軍は危険且つ大胆な決定のもとにこの行動に乗り出したのだが、結局見込み違いの冒険となり、一大惨事となったのである。
 軍事行動において時聞が時には決定的な要素となる。目的達成のためには、ただの一コ師団でこと足りる場合もあるが、後に同じ目的のため一〇コ師団を動員しても貫徹出来ないこともあり得る。
或る日ウエリントン公が、軍指揮官にとって最高の能力とは何かの質問に対して、「退却の時機を知り、それを断行する勇気だ」と答えたと言う。日本の将軍達は、優勢なる英軍の不落の鉄壁に対し突進することの無益を知りながらも、適時にこの用兵の原則に追従することに失敗し、結局退却を開始した時点ではあの悲惨な結末を回避することは不可能であった。
 いずれにせよ、戦場における日印軍の敗退においてインドの精神的勝利がはぐくまれ、それがレッドフォートにおけるINA将兵の裁判過程において達成されたのであった。
 私は、母国独立闘争の最終段階において決定的な役割を果したこのINA運動の結成に当り、藤原中将の果した偉大な功績に対し深甚な謝意を表さねばならない。
 この運動は、単にインド独立の進行過程を短縮した許りでなく、第二次世界大戦以前から極東において外国の桎梏下に伸吟した全領土内に、愛国思想の火花をひらめかしたのである。
 戦後連合軍がこれらの領土を再び占領した時、俄然芽生えた愛国勢力を抑圧することが困難となり、日ならずしてほとんどの東洋諸国が自由を獲得するに至った。多大の犠牲を払って勝利を獲ち取ったイギリスは、来るべき状勢の推移を予見した結果賢明にも潔く快活に、しかも背後に良い別離の印象を残しながらこれらの地域から撤退した。
 現に藤原将軍の英文回願録の出版増備進行中と聞いて私は喜んでいる。INAの歴史は曲解されて、正確に公表されていないというのが私の見解である。記録を正しく書き直すことは絶体不可欠なことである。そしてこの仕事には藤原将軍をおいて他により適当な人はいない。ある意味では、これを引受けることこそ彼の義務であり、歴史に偉大な奉仕となるであろう。彼の著書は、特に真理探求に処する歴史家は言うに及ばず、広く読者聞に歓迎されるものと私は信ずる。
 人の真価は、いろいろの理由から、その人の存命中に正しく評価されないことが間々ある。彼の誠意、英才、手腕力量及び懸命の努力等は、常にそれらに相応する結果をもたらすとは限らない。人知の及ばない運、予測不能の客観情勢や出来事、又はある神秘的な力などが我々に対し強力且つ明確に反発する。我々はしばしば、新しい局面に自身を順応させようとして従来の針路から逸脱しようとする。そのようにして、我々は環境の主人公ではなく、反対にその受難者となっている。意志に従った行動の自由は屡々諷刺であって、ある状況下における我々の生存は、変化した環境への調整次第となっている。
 時の経過と、若干の歴史家の熱のこもった努力により、国外で発足したインド独立運動の効果に関する真実が、徐々ながら公衆の面前に現われるようになったことを私は満足している。現代の高慢と偏見に正常に無関係な後世の人々は、歴史的大事件において藤原将軍が果した偉大な役割とその真価を認識し、その時代の歴史に正当且つ相応の位置を彼に与えるものと私は確信する。
 擱筆に先立ち、私は母国解放のため貴い生命を捧げた多くの日印同胞の崇高な思い出に深甚なる敬意を表する。又同時に、この崇い運動のために貢献した藤原将軍に対し、頭をたれ、そして敬礼をささげる。
   ――ハイネマン・エデュケーショナル・ブックスより