高知新聞で「ここにはかつて学校があった」という特集記事が隔週で掲載されている。今日の誌面は最終回で県西部編だった。それこそ、昭和30年に485校あった小学校がいまでは201校になっている。地図でも見ると当時は県下にまんべんなく広がっていた小学校の所在が市町村の中心部に偏在していることがわかる。
 小学校の設立は1870年代が圧倒的に多い。明治政府が1872年(明治5年)8月3日、学制を発布。1873年(明治6年)1月15日に設置された官立の東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を皮切りに、1875年には、ほぼ現在並みの約2万4千校の小学校が全国各地に設置されたという。
 多くは寺子屋からのスタートだった。面白いのは世界的植物学者である高知の牧野富太郎の最終学歴が「小学校中退」となっていることだった。牧野はもとも と土佐藩家老の深尾家が経営していた名教館で漢学を学んでいて、小学校ができたといって12歳で入学したが、レベルが低すぎて学校に通うのをやめてしまっ たのが真相のようだ。
 話を高知新聞に戻す。学校の統廃合は市町村の合併が影響しているはずだと誰もが思うはずだ。しかし、村から町になっただけで合併の歴史のない西部の檮原町でも10校が1校になっているから必ずしも市町村合併が影響しているとはいえない。やはり児童数の激減にはあらがえなかったのだ。
 しかし、現状は、1つしか小学校がないところは10町村に及ぶ。旧町村別でみるとその数はさらに広がる。大きく学校数を減らしている地域をみると、やはり市町村合併も影響しているといわざるを得ない。
  現在の四万十市の一部である旧津大村地区などは15校が1校にまで減っているから驚きだ。正月に東部の馬路村を訪ねたときに聞いた話では「人口1000人 の村に小学校が二つも残っているのは合併をしなかったから」ということだった。炭焼き窯をつくるために毎週通っている高知市の土佐山地区(旧土佐山村)で は一つずつしかない小学校と中学校の統合工事が進んでいる。
 かつて小学校の数を調べて、なるほどと思ったことがある。全国の郵便局の数 とほぼ同じだったからである。明治時代の日本人の徒歩による行動範囲がまさに小学校の学区だったのではないかと考えたのである。20年前まで認可制だった 米屋や酒屋の数もその徒歩による行動範囲で制限されていたから、村の商圏が学区であったともいえたのかもしれない。
 それが今では多くの郡部でバス通学が常識となっているから寂しいかぎりである。