古ぼけた一冊の本がいまも本棚に眠っている。高校時代の夏休み、父親の赴任先だったイスラマバードを訪れた時、父親からもらった本である。今から半世紀も近く前のことである。子どもの頃、テレビで放映していた「怪傑ハリマオ」のファンだったことから、父親は「ハリマオって現存していたんだぞ」といってこの本をくれた。
 藤原岩一著『F機関』というタイトルだ。1966年の初版であるが、その後、何回か復刻されている。ハリマオが現存していた驚きは当然だったが、それより、インド独立に日本が大いに手を差し伸べた歴史が書かれてあったのは腰が抜けるほど驚かされた。そのおかげで、大学の卒業論文に「インド独立とチャンドラ・ボース」などというテーマに取り組むことになってしまった。
 物語は第二次世界大戦が始まる前からスタートする。当時、陸軍参謀本部にいた藤原岩一が突然、対イギリス戦を想定した東南アジアでのスパイ作戦に従事させられる。にわか勉強の末、バンコクに派遣されて、インド独立連盟との接触が始まった。
 当時のイギリス軍は将官こそはイギリス人だったが、多くの兵隊はインド人だった。グルカ兵ぐらいの知識はあったが、シーク教徒がその主力であったことは 知らなかった。インドはガンジーを中心に長く独立運動を繰り返していた。その中にガンジーの非戦主義と真っ向から対立して、軍事力でイギリスと闘う姿勢を 示していたのがチャンドラ・ボースだった。
 藤原らが考えた作戦は英印軍の中のインド人を寝返りうたせることだった。そのために日本軍が 將來のインド独立を約束することが必要だった。東南アジアには華僑だけでなく多くのインド人が居住している。バンコクにあったインド独立連盟は当然秘密組 織だったが、各地に支援者を持っていたから、開戦の暁には東南アジア在住のインド人達も味方に入れることができるはずだった。
 不幸にも 1941年12月8日、開戦の日がやってきて、マレー半島北部から日本軍が上陸作戦を敢行した。藤原は自らの仲間を「F機関」と呼んだ。藤原のFに加えて 「Friendship」「Freedom」などの意味も持たせた。藤原は武器は一切携行しないという主義を徹底させた。
 英印軍の中に インド独立連盟のメンバーを潜り込ませ、今回の戦争の目的はアジアの開放であることをインド人兵たちに説き伏せた。緒戦は日本軍の勝利が続き、英印軍はマ レー半島をずるずる後退したため、多くの英印軍将兵がジャングルに取り残された。捕虜となった将兵を説得するのはF機関の任務だった。
 アロスターというマレーシアのペナンの対岸の町で劇的な出会いがあった。日本軍は先を争って英印軍を追っていたため、町の治安を守るものはいなかった。 ジャングルの中でとらえた英印軍の大隊があり、隊長以外はシーク兵だった。シーク兵を仕切っていたのはモハンシンという男だった。
 アロイスターに進出したF機関は捕虜となったモハンシンに町の治安維持を委ねたところ、町はあっという間に治安が回復された。武器を携行しなかったF機関の人々が武装した英印軍を指揮したのだから前代未聞である。
  F機関の人々はインド兵を敵としては処遇しなかった。一緒にカレーをつくり一緒に手で食事をした。F機関とモハンシンらとの関係は一気に親密なものになっ た。そのうわさがジャングルに隠れていたインド兵士たちのものとのどんどん伝わると、インド人兵士たちがどんどんF機関のもとに投降するようになった。
  藤原はこの投降したインド兵に再軍備を施して、インド独立軍に仕立てようと考えた。モハンシンに相談したところ、ドイツにチャンドラ・ボースがいるから ボースをアジアに戻して欲しい。ボースを頭にすればインドは立ち上がるし、われわれも協力できないことはない・・・・などということを説明した。
 物語はまだまだ続くが、続ければ一冊の本になるほどだから、ここらでやめておく。ただ。われわれが侵略戦争と教わった第二次大戦の中でこんなことが行われていたのか! 高校生の僕には大きな衝撃だったことは伝えておきたい。