開国前夜-田沼時代の輝き-を読んで(鈴木由紀子著)

 動物学でいうinprinting(刷り込み行動)というのは実に恐ろしいものだ。卵から孵った雛鳥が最初に見た生き物を親鳥と思い込むというあれだ。なぜ「刷り込み」かと云えば、田沼意次は賄賂を取った悪いヤツと小学校で教えられ、この齢まで悪いヤツとばかり思い込んでいた。自分の不勉強を棚に上げ刷り込みのせいにするは不届き千万と叱られるかもしれないが、表題の著書を読み進むうちまさにコぺ転、刮目、血沸き肉躍るような興奮を覚えた。
 帝国の圧政に反旗を翻したアメリカ合衆国の成立、それに刺激を受けたフランス革命・・・一連の欧米の胎動は18世紀後半からである。その頃日本は鎖国政策の中で重い年貢米と大飢饉に疲弊しきった領民たち。彼らに一縷の希望を与えたのが田沼意次だった。開墾や新田開発に端を発する産業振興、雇用の創出、一連の経済政策から国造りの根本を見直す策に打って出た訳だが、単なるコップの中の掻き回しに終わらなかったのが田沼の凄い処だった。
徳川治世も中期を迎え鎖国の概念が洗い直されていく中で、彼の殆ど個人的な関心でもあったのだろうが国の外側に向かって開かれた時代が田沼時代と言ってよ い。鎖国の屋台骨は守りつつ、欧米の思想と知識を長崎・出島から、対馬藩を通じて朝鮮から、薩摩藩の支配下にある琉球からとこの3つをキィ局にして貪るよ うに取り入れた。この著作の素晴らしい処は女性らしい実に丹念さで西洋の知見に追い付こうとする田沼の政治の基本思想を解き明かしていることにある。
 「田 沼といえば賄賂を好んだ金権政治家のイメージで見られがちである。何事も金で動く腐敗した当時の日本と、自由と平等の意識にめざめた市民社会の実現に向 かったアメリカやフランスとは比較にならないと認識している向きには、そうした世界の動きに連動して、日本も外側にむかって開かれていたという評価は意外 に思われるかもしれない」(著作ママ)しかし少なくともそれまで50年以上あった東西の開きは田沼の時代を通じて急速に縮まっていく。
 そして何より圧巻なのは、このベーシックな思想に感化された日本人たちが各界で輩出したことにある。平賀源内、杉田玄白を筆頭とする博物学や医学、桂川甫周 や大槻玄沢といった若手学者を中心とした蘭学の一斉開花、秋田蘭画に集約される芸術・文化への影響、北方ロシアの極東進出をにらんだ千島・樺太への着目な どなど、ひとつの基本思想がまるでシンクロするように各分野で次の世代を育て上げていく。そこには賄賂政治家とは全く別の真の意味での政治家像が見て取れ る。そして時代的にも地勢上もうんと離れたヨーロッパと共振する夜明け前の日本が蠢いていることに興奮した。この政治手法はやがて米沢藩主・上杉鷹山らに 引き継がれていくが薩摩藩主島津重豪、熊本藩主・細川重賢といった英明なサポーターが存在したことも大きい。それくらい当時の日本は傑出した素地を持って いたということでもある。
 時代が外を向くということはけた違いのエネルギーを創出することにも著者は触れている。産業革命のコンセプトと もなる科学・芸術の飛躍的発展を真正面からとらえたのは何も欧米のみではないということを実感した。鎖国の日本が現在進行形で共振しているのだ。そして科 学に通暁することが個人の意識の革命にまで繋がっていることも著者は紹介している。特に女性の意識の台頭を池大雅の夫人の玉瀾と只野真葛の生涯を辿ること で紹介しているのも興味深い。とくに仙台藩医工藤平助の娘であった真葛は家父長制や儒教倫理の否定など急先鋒で当時としてはぶっ飛んでいる女の闘争宣言と も思える著書もあるらしい。この時代にすでにそのような意識革命が存在したことが驚きである。
 これ以外の主な登場人物をランダムに列挙し ても・・・・池大雅、与謝野蕪村、シーボルト、田村藍水、會槃、前野良沢、中川淳庵、青木昆陽、吉雄幸左衛門、最上徳内、司馬江漢、本多利明、伊藤若 冲・・・・まさに百花繚乱。タイトルの開国前夜は文字通り幕末の維新に至る開国である。当にローマは一日にして成らず、遡ること約100年の18世紀にそ の蠕動ともいうべき文化爛熟の時代があり、その一大プロデューサーが田沼意次であったというのは何とも心躍る一編であった。しかし元に戻るが時代とともに 人の評価は変わるとはいえ、文部科学省もえらい刷り込みをしてくれたものである。