父の友人である植野克彦さんは今年80歳になった。小さい時に原爆で裁判官の父と姉と兄を失った。高知市内で陶器店を営みながら、こつこつと日中交流に尽くしている。
 今日から、高知市内で日中友好条約締結35周年を記念して「池田大作と中国」展が始まった。日中が尖閣問題で角突き合わせている事態を憂う。憂うばかりでは何も起こらない。展示会のオープニングには中国大使からのメッセージもあった。大阪総領事館から2人が参加してくれた。夕方の講演会で僕は「萱野長知と孫文革命」と題して講演させてもらった。200人ばかりの集まりであったが、多くの人に共感してもらったと自負している。
 その植野さんが毎日新聞の3面トップに取り上げられていた。

 広島原爆の日:68回目 鎮魂の夏 平和、今こそ誓う 毎日新聞2013.08.06.大阪夕刊

 被爆地・広島は6日、68回目の鎮魂の日を迎えた。1945年8月6日午前8時15分の原爆投下で、心身に深い傷を負った被爆者には、核廃絶への願いを秘めながらも体験を語れなかった人も多い。核兵器なき世界に向けた国際世論は高まりを見せつつあるが、世界の核を巡る状況は予断を許さない。領土問題や歴史認識を巡り日本と近隣諸国との緊張が増すなか、被爆者たちは改めて平和への思いを強くしている。

 ◇陶器通じて日中交流 隣国との緊張憂い
 高知市で老舗陶器店を営む被爆者の植野克彦さん(80)は68年前のきょう、父(当時49歳)と姉(同19歳)、兄(同16歳)の3人を原爆で一瞬のうちに失った。これまで平和記念式典に行く気になれず、被爆体験を語ることもなかった。陶磁器を扱う商売柄、中国との民間交流に尽力してきたが、その中国と日本が領土問題を巡り緊張を高めている。大事に思っている平和憲法を改正しようという動きも見えてきた。「何ができるかは分からないが、このままではいけない」。そんな思いを抱き、初めての式典に臨んだ。
 原爆投下時、広島高等師範学校付属中1年生で12歳だった。広島地裁判事の父・中澤好英さんと姉、2人の兄と広島市中心部の大手町(現中区)で暮らしていた。爆心地から約1.5キロの中学校そばで被爆。大やけどをしてがれきの下敷きになったが脱出し、逃げる最中に気を失った。山口県境の広島県大竹町(現大竹市)の国民学校に担ぎ込まれ、意識を取り戻した時、軍医から「日本は負けた」と知らされた。
 「父や姉、長兄は絶望的だ」。疎開先から迎えに来た母に聞かされた。3人の行方は今も分からず、遺品も見つかっていない。次兄は無事だった。一時は米国を恨んだ。だが、「戦争は狂気。立場が逆なら日本が核兵器を使ったかもしれない」と思うようになった。
 戦後は父母の郷里の高知に移り、高校を出て銀行員になった。その後、妻の実家の陶器店を継いだ。1990年に中国・景徳鎮市を初訪問して以降、現地の陶芸家との交流を続け、96年には愛知県瀬戸市と景徳鎮市の姉妹都市提携の橋渡しをした。
 植野さんの祖父は明治の自由民権運動家で衆院議員も務めた中澤楠弥太(くすやた)氏。「祖父は清(中国)の留学生の面倒を見ていた。中国との関わりは、不思議な縁かもしれない」と語る。
 しかし、昨年9月、高知県の友好都市である中国・安徽(あんき)省の、李斌(りひん)省長を訪問した際、面会を断られた。同氏が前年高知に来た際に交流を深めたばかりだったが、尖閣諸島問題で日中関係が悪化していた。長年積み上げた親交が政治に翻弄(ほんろう)されることに「これまで築いた交流を絶やさないことで精いっぱいだ」と悔しがる。一方で中国も核保有国の一つ。被爆者として核廃絶は願うが、何よりも「最後のボタンを押さない努力、押させない努力が必要だ」と思う。
「過ちは繰返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑の前で、安倍晋三首相はこの日、「核兵器廃絶に、また世界恒久平和の実現に力を惜しまない」と誓った。
 式典を終えた植野さんは言った。「ぜひその通り、実現してほしいものです」【吉村周平】