8月7日の講演「萱野長知と孫文革命」のためにひもといた『萱野長知・孫文関係資料集』(高知市民図書館)の冒頭に、萱野が亡くなる直前に「月刊高知」に書いた文章があった。
 板垣退助が「日本は陸軍を強化すれば大陸に進出する、日中融和のために日本は海軍を持てばいい」と話していたことや「日本と中国は兄弟格が逆転したが、兄が弟の饅頭をムシャムシャ食ってはならぬ」と警鐘を鳴らしていたことを明らかにしている。また、国境なき世界を求めて生涯を尽くした萱野が日本の敗戦によって平和憲法が誕生したことについて「人類救済の天業である」と喜んでいる場面もある。終戦の日に読むにふさわしい文章であると思い、萬晩報に掲載することにした。(伴 武澄)
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 思い出 萱野長知(『月刊高知』1947年1月号 高知新聞社蔵)

 少年時代の印象程脳底に深く刻みつけられ、生涯を通して記憶に存するものはない、俗に「三つ児の心は百までと」いうことがある。また「雀百まで踊りや忘れぬ」という。少年時代に蒔かれた種子は一生存在するものと思われる。わたくしが子供の時であった。板垣先生が岐阜の遭難で「板垣死すとも自山は亡びぬ」と千古不磨の金言を残し、傷を包んで高知に帰られた時であった。この先覚巨人を迎うべく土佐人の血は、沸いた。浦戸港内、孕にかけて赤い旗をかかげ、赤い帽子をかぶった老若男女小舟を艤して海面を埋めた。子供心には何が何やら無我夢中、理屈なしに共鳴したことと思う。
 やや長じて年長者の尾馬にのり、「自由は勝利よ」「自由は勝利よ」と叫びつつ、旗を押し立て提灯つけて追手筋、帯屋町、本町、上町、下町、高知街をワッショワッショと練り廻り、「自由民権、こはだのすしよ、押せば押す程味が出る」という流行歌を唱え、「人の上には人はなし」という植木枝盛作の新体詩を口すさみ、これに反対した団体と出会してはスリ合い、則ち喧嘩して、旗も提灯も滅茶苦茶にされたこともあった。
 この時代は憲法草案についていろいろ論議され、馬場辰猪、植木枝盛その他自由党の連中は、「天皇は神聖にして」の文字を「歴史上冒すべからず」としたがよいとか、または「欽定憲法は永遠性のものでない、必ず改変せらるる時代が来る」とか種々論話されたことを記憶しておった故に今度の新憲法が議題に上り、審査さるる時もさ程、耳新しく感ぜず、我等の少年時代の風が今頃吹いてきた位の気持ちがしたのである。
 往事を追懐すると夢の如くである。佐野、吉松事件という京都で発覚した堂〔廟堂大官カ〕暗殺の国事犯計画があった。吉松らは土佐山に隠れておったが捕へられて京都に送られ、一味徒党が残らず刑場の露となった。唯独り大井善友という青年がこの謀反党に加盟していたが、未成年者の故を以て死刑を減ぜられ獄中に在ったが、憲法発布の祝典によって減刑され出獄した。
 当時、わたくしは初めて高知を飛出し、従兄深尾重尭が経営しておった大阪時事通信社に入社した。謂うにこれは大阪における最初の通信社であった。朝日、毎日、東雲新聞社に通信記事を送っておった。中江兆民に代わって寺田寛が一切を主幹しておったので、東雲新聞社とは特別深い関係があった。大井善友の出獄は土佐出身の政友に非常なる感興を与えた。
 寺田寛を始めとして同郷人は勿論、自由党に関係ある有志者相会して最も盛大なる歓迎会を開いた。歓迎も度を過して熱狂的であった、憲法発布され多分の民権は認められたとはいえ、官憲の勢力は依然たるものである。血気に燃え前後の思慮に乏しき青年わたくしの如きは早速ブラックリストにのった、ついに物色されだした。身辺の危険が来たので従兄深尾の世話で谷河という弁護士の宅に一時身を寄せたが、永遠に安全性がないので大阪を立退くこととなり富永安英といふ学友より旅費を貰い、九州に往き苦労に苦労を重ねて、清国上海へ高飛してついに支那革命に一生を投ずることとなった。実に奇しき運命であったとはいえ少年時代に培われた通りの経路を生涯たどったに過ぎないのである。
 この大井善友に就ては面白き後日物語りがある。桂内閣打倒を叫んで犬養、尾崎が先登に立ち、憲政擁護を叫び、日本政党の総立ち運動を起した時であった。吾らは土佐同志会というを組織して、大江卓老人を中心に推し立て、和田三郎などと共に軍閥内閣打倒を宣言して、日比谷原頭に活躍した。その時大井善友が突如として現はれ、吾らの憲政擁護運動に参加し大に気勢をあげた。
 大井とは出獄当峙大阪にて別れて以来、絶えて消息を聞かず、生別か死別か殆ど忘れておったが、数十年を経過してしかも神職の姿にて御幣とお榊をおし立て、日比谷原頭に立て、払い給え清め給え、桂内閣とやったので、つどい来れる群集を驚かしめた。大井の談によれば、彼は憲法は出来ても真の自由はなく、軍閥官憲に蹂躙さるるばまことに残念である、憲法擁護運動に共鳴して駿州の片田舎より出てきたのであるとて、壮年時代の意気をしのばしめたが、桂内閣が打倒されて後は再び駿州の山間に引籠りその後の消息を絶ったのである。生か死か。
 大江卓老人も憲法擁護のため老躯を提げて活躍、往年自由党時代、林、竹内などの豪雄と轡をならべて奮闘せし意気なほ存し、吾人をして当年を追想せしめたのであった。翁は憲政擁護運動の一幕が終って以来、本郷の善福寺において得度式を行い天也と改名した。この時、門司の六連島の僧侶岡本道寿が佐々木安五郎、田中舎身の紹介にて憲政擁護会に来り、水平社平等運動を持ち出したので、これを和田三郎と共に板垣先生に相談した。板垣先生、直ちに「これは大江の仕事じゃ、大江が多年熱中せし一大事業だ。大江に頼むがよかろう」とて直ちに大江に相談すると、大江はこの事業は俺の宿願だと大に賛成し、大木遠吉と相談して、早速帝国公道会を組織し、残年を水平運動に寄与した。四民平等、民主主義の新憲法が生れた今日、板垣、大江両翁、地下で相対して微笑しつつあると思ふ。
 板垣先生は、わたくしに生涯通じて忘るべがらざる金針を与えられ、わたくしはその進路を踏みはづさないよう心懸けた。世間一般、中国問題に関係するよし最大多数は帝国主義的色彩を帯びており、ミリタリズム的の理念と行動を敢てした。いわゆる支那浪人と呼ばれたものは大概軍閥の走狗であった。ことに朝鮮合邦以来、満州問題に対しても、朝鮮を延長する位の主張を持っておった。
 板垣先生は常に卑近な例を引いてこれを戒められた。即ち日本は古来中国の文化をうけて来たので中国は兄分であったが、日清日露の役を済て世界の強国となり、今では日本が兄分の位置となった。とに角、兄弟の国である、しかるにその兄の力が強いからとて弟の持っている饅頭を取あげてムシヤムシヤ食っている、弟はベソをかいて訴えているようでは、兄の資格はないので、ソンナ気持ちをもって中国問題を考えては相ならぬ。
 日本内地では多数の陸軍は不必要だ。陸軍の大縮小をやらねばならぬ。四面海の島であるから国防上海軍は拡張せねばならぬ。陸軍が多ければ、いきおい、中国大陸に発展するようになる。ついに排日の種をおく、日華の平和は破れる。兄弟が垣にせめぐことになるゆえに、陸軍はむしろ中国側において拡張し、海軍は、日本側において拡張し、大陸の責任は中国側にて引受け、海軍の責任は海国日本にて引受けることとすれば、陸軍なき日本に対し、中国は恐るることがなく、海軍なき中国に対し日本が恐るることもなく日華の平和提携が出来る。侵略的野望を抱くはもっての外である。
 これが板垣先生の主張であって、わたくし等を戒められた筋合である。この先輩の理念が遂行されておったら、日本はこんなみじめな敗戦亡国のうきめを見ることがなかったのである、現在の東京裁判を見て、つくづくと思いあたることが多いのである。先覚者の達見、一代華族論、神と人など読めば読む程後人をして襟を正さしむるのである。
 中華革命前、孫文その他革命志士が板垣先生の門を叩いて教を請うたものが沢山ある。先生は喜んで隣邦の志士を迎え、共和政体、民主主義の必要を説かれて、革命のため邁進すべきを論ぜられ、大に鞭撻されたのであるが、その内の一人が「敵国は民度が低いから、共和とか民主とかはもう少し教育啓蒙して、国民の頭をすすめてからでないと、突然民主制を行えば戸惑うでないか」との質問をした。
 その時先生は断乎として「ソンナ尚早論は革命家には禁物だ。やりさえすれば人民はついてくる。やらなければいつまでも開けぬ。いやしくも革命家が尚早など前後を考えるやうでは成功せぬ。これがよいと思えば断乎として行うべしだ。断じて行えば鬼神も避く、否ついてくるのだ」と大に激励されたのである。先生は中華革命に対して大見識をもって指導された。
 或時先生は、馬鹿ちんでなければ政治家、駄目ぞよといわれた。まことに意義の深い、味のある言葉と今において大に感ずるのである。もし日本の輔弼の臣に自己の利害を超越した、捨身の人が一人でもあれば、貴衆両院議員でも、その他の有志家でも、実業家でも、文士でも、海陸軍人でも何んでも保身の術を知らぬだけの馬鹿ちんがあったなれば、日本をここまでどん底に落さなかったろうと思う。この頃の土佐は馬鹿ちんの種切れがしたでないかと思はれる。健依別、即ち和田螺川の書いた、佐野、吉松の記事が土陽新闘か高知新聞の屑かごの中にあると思う。今では遠慮もいらぬ公表してほしいのである。
 わたくしは孫文と提携した当時より「国境の撤廃論」を唱道した。胡漢民など、支那の同志は、わたくしを空論家と評した。妄想狂と笑った。しかし、わたくしはこの空想を棄つることが出来ない。北京でも、香港でも公会の席において発表した。また十数年前に土佐協会の雑誌にものせたことがある。これは日本でも支那でもいずれの国でも、そのまま存在、税関という壁を撤廃して、自由貿易とし、居住その他の制限なく、国際的差別を設けず、その国に行けばその国の法律にしたがい一切勝手たるべし、但し古人「郷に入って禁を問う、郷に入って郷にしたがえ」位のところで国境を眼中に置かぬのである。これを最初中国、日本、南洋、ボツボツ拡大して世界的に提唱したいという観念であった。
 この理想は「椎背図」という中国二千年前の預言書にものっている。李淳夙の蔵頭詩にも黄藻禅師の詩にも、諸葛亮の廻文詩にも劉伯温の焼餅歌にも、その他にも沢山ある、悲惨な時代を逐一示し、飛行機、潜水艇時代より日本が太平洋で惨敗の図まで出ているが、結局は世界大同と平和境となりまた変化を生ずることまで予言して、年代を記して仔々細々であるが、こんな予言などを敢て論ずるに足らぬが、実際において我国の憲法が世界に率先して軍備を投げ捨て、世界平和の魁をなしたことは真に偉大なる天祐である。或る意味において、世界指導者であって、人類救済の天業である。わたくしなどは、この新憲法を遵守して、世界的に範を示したいのである。