高知県でエピ饅の名で知られたエチオピア饅頭の近森大正堂が5月31日、約100年の歴史に幕を閉じた。何の変哲もない黄饅だったが、ネーミングが土佐人らしかった。初代の店主がイタリア軍の侵攻に立ち向かうエチオピア軍の映画に感銘して命名した。3代目の店主近森悠之さんが4月、亡くなり、閉店を決めた。県下のほとんどの新聞が今朝、エピ饅の終わりを惜しんだ。
 報道によると、最後の日となった31日は昼に用意した1万個を完売したというからすごい。妻の親友は安芸市から車を走らせて最後の日のエピ饅の行列に並んだとFacebookに書いていた。高知の人たちのエピ饅への思い入れは半端ではなかった。数百万円の売り上げである。この10分の1でも毎日売れていたら家族も店を閉めることはなかっただろうにと残念で仕方がない。
 僕がエピ饅を知ったのはそんなに昔ではない。共同通信で47NEWSを立ち上げたころ、地方紙の人たちと地方も面白い食べ物を探した。高知では帽子パンとともに名前の面白さからエチオピア饅頭が評判となった。
 2週間程前、高知龍馬空港に行った帰りに立ち寄ったが、まだ午後2時だったにもかかわらず、完売の看板がかかっていて店は閉まっていた。その2カ月ほど前にエチオピア饅頭がなくなることも知らずに2箱買って家族で食べたのが最後となった。
 店頭には「エチオピア饅頭のしおり」がおいてあった。内容を転載したい。

 大正八年、近森大正堂創業の地、高知県香美郡野市町(現 香南市野市町)一帯は白下糖と呼ばれる黒糖の特産地でした。
 初代店主はこの白下糖に加味工夫し、黄まんじゅうを製造し「のいち名物」として発売し、その素朴な風味は、広く親しまれて居りました。十数年後、エチオピア大国はイタリアの侵略を受けましたが、エチオピア軍は勇敢に迎えうち苦戦のうちにも撃退する事が出来ました。このニュースに非常に感動を受けた主人は、このエチオピアの名を敬意と賞讃を込めて、愛するまんじゅうに名づけ「エチオピア饅頭」と改めたのでございます。
 初代店主のエチオピア国への思いは、約六十年後の平成八年十二月、駐日エチオピア大使アーメット・マハディー大使とザイナバ婦人の訪問を受け、エチオピア饅頭をエチオピア国より公認し支援をしていただきました。 主人 敬白