伊勢神宮のおかげ横丁の角に「もめん屋藍」という藍染布の店がある。藍染め本家の阿波徳島にもないほどの豊富な品揃えで、藍染め商品を扱う店舗としてはたぶん国内最大だろうと思う。
 津市にいたころは大した物も買ったことはないが、好みの店の一つで伊勢神宮を参った後にはちょくちょく立ち寄った。会社を定年となって高知へ帰ることを決めたとき、途中に伊勢神宮をお参りし、思い切って藍染めの座布団を一揃え注文した。この店では好みの綿布であつらえてくれるのだ。もちろん浴衣でもシャツでも仕立ててくれる。
 何度もこの店に通ううちに藍染めは綿布でなければならないと勝手に決めつけるようになっていたが、寂しいことに藍染めの綿布を織るところは三重県では津市一身田の臼井綿布だけになっている。江戸時代に一世を風靡した伊勢木綿はもはや産業としては成り立っていない。
 伊勢と木綿織りとどういう関係にあるのか。実は江戸時代、伊勢は伊勢木綿と呼ばれるほどの綿織物の一大生産地だったのである。当世風にいえば「コットンファッション」のメッカとでも表現できるかもしれない。〝デザイナー〟たちがそれぞれに江戸にアンテナショップを開いた。店のロゴを染め抜いたのれんが並ぶ大伝馬町の錦絵さえ残っている。発信するファッション情報は町民たちの牛耳を集めた。
 江戸時代のファッションは当然、着物である。着物は洋服と違ってまとうものだから、形に変化はつけられない。だから着物を選ぶ際の決め手は素材と色と柄となる。木綿は日常の着物。コスト的に凝った染め付けなどとは無縁の世界。伊勢木綿が差別化したのは格子柄や縞模様だった。その組み合わせで毎年新しい流行を作り出していたというのだから驚きである。
 江戸幕府は士農工商という身分制度を押しつけ、町民に絹織物を身につけてはならないというお達しを出し、町民が華美に走ることを戒めた。しかし戦国時代からの日本経済は商人の存在なくしては立ちゆかないほどの商業の時代に入っていた。交換経済から通貨を基礎とした商業の時代へと大きく転換していた。
 背景には金銀銅鉱山の開発が進み、日本は世界に冠たる産出地としてヨーロッパでも知られるようになっていたこともある。通貨の流通によって商人たちの社会的地位は著しく向上していた。
 それまで日本人の多くは麻を多用していた。絹は貴族のもので、庶民はもっぱら麻の着物を着ていた。インドからイギリスに綿織物がもたらされたのは十七世紀である。その後、イギリスは蒸気機関の発明でインドから綿織物産業を奪うことになる。その産業革命の前に伊勢の地で木綿が大規模に栽培され、綿織物業が勃興したと考えると面白い。
 木綿の栽培には大量の肥料を必要としたが、伊勢の地では沿岸でとれるイワシが畑に投入された。日本人の貴重な蛋白源であったイワシが伊勢では畑に肥料としてまかれていたことも興味ある歴史である。農業を含めて日本経済全体が相当程度レベルアップされていた証拠である。伊勢の他に尾張や和泉でも木綿が生産されていたが、畑に海の幸を大量に投入する農業が始まったことは産業の大きな時代の変革だったといえるのかもしれない。
 戦国時代、商人を重用した大名が伊勢の地にあった。近江国日野村から出た蒲生氏郷だ。豊臣秀吉によって松阪の地を得て松阪城を築き、近江商人を多く招聘した。氏郷は短期間で伊勢を去り、会津に新たな知行地を得たが、商人たちは伊勢が生み出す綿布に価値を見出し、農民に綿織物を奨励しやがて大消費地となった江戸に売り込むことに成功した。
 松阪を中心とした商人たちは江戸の大伝馬町に出店をつくり、町人たちが好む織り柄を次々と生み出した。伊勢商人の筆頭格は三井家利高だった。日本橋に三越を経営した。同じ伊勢の小津清左衛門商店は今も東京に紙問屋として続く。安濃津の川喜多商店は明治以降、金融業を営み現在は百五銀行となっている。イオンの岡田商店もまた四日市の織物問屋だった。
 伊勢商人のキャラクターとしては彼らの商売はかなり手堅かったことから「近江泥棒、伊勢乞食」と言う言葉が残されている。近江商人はがめつく、伊勢商人は、貧乏な乞食のように、出納にうるさいと言う意味である。
 興味深いのは白子の型紙である。木綿織りは町人たちの着物として安価でなければならなかった。そこで考案されたのがプリント地のための型紙である。柿渋を何度も紙に染み込ませて切り抜きデザイン化したものである。現在も型紙のカタログ風のものが残っていて、白子の商人たちが全国の染色業者を回って注文を取っていた。
 明治以降、ヨーロッパから新たな機械式織機が入って来て、伊勢は引き続き綿織物産地として発展した。東洋紡は発祥が四日市で三重紡績と名乗っていたものが、1914年、大阪紡績を吸収して東洋紡績を社名変更した。
 面白いことにイオンが全国に展開する巨大ショッピングセンターのほとんどはかつての紡績工場の跡地であるそうなのだ。