仕事でアメリカ合衆国に5年半ほど暮らした。80年代初頭ジョン・レノンが凶弾に倒れた頃のことだ。当初の仕事場はNewYork,NewJerseyの両州であった。2年半後に西海岸のLosAngelesへ移り住むこととなる。一度の駐在で米国の全く異なる両側を経験したわけだ。日本から見ると一つの国として存在している米国が、まるで異国の集合体なのだということを思い知った。
 そしてまたこの5年半は、日本人としての自意識を見つめ直す期間でもあったように思う。生まれて30年大阪で暮らし、東京に移って初めて大阪人としての自分を意識したものだ。本拠を出てみて気づくのが本当の自分なのかもしれない。その推論からすれば遠くない将来、人々が地球外に移り住むことが可能となったとき、はじめて人間は地球市民としての自覚と連帯感が生まれて来るのだろうか?などと夢想するこの頃である。
 脱線したが、そんな米国での生活の折々で日系アメリカ人たちと知り合うこととなった。特に西海岸に移ってからは日系人の経営する化粧品店を今後どうするかが大きなテーマであったから、彼らとより密接なお付き合いをする機会が増えた。
 日系移民と後の世代の人々、日本を捨て起死回生を狙ってアメリカに飛び込んだ人々、国際結婚でアメリカに移り住んだ人々…実に様々の日系人やアメリカの日本人と出会った。それぞれが一つの歴史であり深く印象に刻まれた。そこで今回から何度かのシリーズで私の会った日系アメリカ人の思い出をお届けしたい。
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 NYに駐在する日本人は以前マンハッタンの東側に位置するフラッシング界隈に多く住んだ。だがベトナム戦争以降、韓国人移民の大量流入に追い出されるように西岸のNJ州Fort Leeや北部のWest Chesterなどへ移り始めていた。マンハッタン内は家賃が高く当時の給料では住めなかった。加えて治安や子供の教育を考慮して家族持ちの多くは郊外を選択していた。我が家もハドソン川を渡って少し北に行ったNewJersey州Englewoodという街に住んだ。南に5Kmも行けば、前述のFort Leeだった。
 2週間に一度ほど家族でFortLeeへ日本食材の買い出しに行くのが日課だった。食材店ではひとあたりのものは何でもそろう。イタリアから家族で遊びに来た友人家族など、その種類の豊富さに驚いたほどだ。西海岸は別にして東はまだ今ほど日本レストランや日本食材が出回っていない頃だったからこれは重宝した。
 そんな秋の終わりのことだった。いつもと店の雰囲気ががらりと変っていた。店内には大勢の初老の日本人の小母さんたちが精一杯おめかしをして、まるで同窓会のようだった。あちこちにつかず離れずで遠慮がちに主人と思しき米人男性たちが控えている。感謝祭、クリスマス、正月準備の時期まで、この集会は続いた。
 店のおやじに尋ねたところ戦後日本に駐留した兵隊さんとその日本人妻の集会だった。除隊後全米のあちこちに散った彼ら取分け奥さんが、日ごろ会えない同胞と食料品店へ買い出しのひと時に再会を約束しているのだ。遠来のお客さんは一様に真紅の口紅だった。流行とかけ離れ、ある意味奇異であった。しかし思い当たることがあった。
 本社の外国部に赴任して間もない頃、まずやらされたのが化粧品の一品別・色味別の出荷予測だった。海外地区別の注文を予測するのだが、航海と物流の期間を加えて6か月先の出荷見通しを立てなければならない。品切れすると困るので、強気に予測を立てては工場の管理部長からよく叱られた。ついには余った在庫に「ハットリ偏在」などという嬉しくない名前までもらった。
 ちっぽけな輸出量を日本国内と同じ尺度で比較することなど土台無理な話だと思った。「工場全体の在庫量にすればゴミのようなものです。将来の飛躍のために輸出品はなんとか大目に見てくださいよ」と煙に巻いていた。化粧品だから流行がある。特にメーキャップ製品など予測が当たるはずがない。当たるも八卦、占いみたいなものだった。そのなかに流行と関係なく毎年確実に一定数が出る口紅があった。仕向地は米国だった。それが真っ赤な口紅だった。
 ここからは僕の推測なのだが、おそらく彼女たちが渡航したであろう朝鮮戦争終結の昭和30年前後、当時流行していた真紅の口紅が彼女たちにとっての「口紅」だったのではないか。時代とともに流行が変化しても振り向きもせず、真紅の口紅を彼女たちは使い続けたのだと思うのだ。彼女たちにとって真紅の口紅は口紅に止まらず、自分たちの日本そのものだったのではないか。その真っ赤な口紅をさして、旧い友人たちとひと時の語らいを愉しむ。日本食材店はそんな彼女らの晴れ舞台だったのだろう。