これまでアメリカに暮らす日本人や日系アメリカの人たちを綴ってきた。この稿はそんな日系の人たちとのビジネスや企業を通しての思い出である。少々仕事がらみで恐縮だが、お付き合い願いたい。
 戦後間もなく日本企業が海外進出を図る時、重要な手がかりは現地の日系の人々であった。
 多くの会社の海外開拓史を開いても、まずその国の日系社会に当たってみたという例が少なくない。サンプルと値段でビジネスが成立する商社の例は別として、販売サービスを伴う製造業では特に顕著だと思う。その理由は商品を成り立たせるビジネスモデルをそっくりそのまま外国に持ち込む方法を模索したからではないか。つまり日本国内で売れている製品をそのまま海外に輸出し、国内と同じ売り方で浸透していくという作戦だ。
 そのヒントは戦前の満州、朝鮮、台湾の統治時代にある。これらの地域の「開拓」に日本企業も挙って参加した。国策でもあった。そこでのビジネス展開は100%日本国内のシステムの持ち込みだった。もちろん当時は準国内であるから当然かも知れないが、曲がりなりにも異文化圏への進出である。それを可能にしたのは日本から渡っていた邦人たちであり、市場もメインは準日本市場であったはずだ。売れている商品を売れるであろう市場に持ち込むProductOutの発想である。
 戦後の海外進出に際して、多くの企業が先人の知恵として選択したのがこのProductOut方式だったのだろう。そして未知の国へのもっとも頼れるパートナーとして日系人の存在がクローズアップしたのだと思う。SHISEIDOもまた然りであった。進出先は歴史的にも日系社会の成立が早かったハワイからだった。ホノルルで映画館を営み成功を収めていたN.Furuya氏をパートナーとして地歩を築いていった。1962年のことだ。真の欧米への進出の準備段階として、まずは日系人社会の開拓からということだった。
 その一方で純欧米市場への参入機会も虎視眈々と窺がってはいたが、ハワイからではいかにも遠すぎた。本土上陸を果たさぬことには手も足も出ない。そこでロサンジェルスへの進出を図る。前述Furuya氏の日系ネットワークを通じての進出であった。当然の成り行きとして、ここでも助っ人は日系人であり商圏は米国西海岸の日系社会であった。欧米人の価値観と嗜好を探ってビジネスに繋げるMarketInの時代到来までは、まだ遠い道のりであった。
 SHISEIDOの国際化のプロセスは日本拡張型のProductOutと現地探索型のMarketInのマーケティング手法の相克であり進化の歴史でもある。SHISEIDOに限らず多くの日本企業の海外進出もおそらく同様の歴史をたどったのだろう。言い換えれば企業の側においても戦前に大陸進出を果たした国際派一世の下で戦後開拓は始まり、その間に欧米ビジネスに真っ向から挑む国際派二世が育っていったということである。
 カウボーイたちがひたすら西へ西へと進んだように、SHISEIDOのアメリカ進出は真逆であった。ゴールは東海岸だった。しかしそんな尺取虫のような東征作戦と関係なく、そのチャンスはいきなり訪れた。1964年のニューヨーク万博である。文献を紐解いてみるとSHISEIDOの東京本社はこの万博への出展に乾坤一擲の勝負を掛けているようにみえる。
「House of ZEN」というパビリオンの出展だった。欧米への真っ向勝負を挑んだ国際派二世たちのコンセプトへの執念が垣間見える。米国人と米国社会へのダイレクト・メッセージだった。この成功を皮切りとしてSHISEIDO Cosmetic Americaは誕生した。販路をデパートに限定した本格的な化粧品ビジネスをスタートし、従来の日系市場部門も内包させ東西の統合を果たした。しかしデパートビジネスは生易しいものではなかった。その後、幾度となく経営危機に見舞われることとなる。だがこれは今回の本旨ではない。
 話を日系の人々に戻す。脚光を浴びるデパートビジネスの陰に回ってしまった日系化粧品チャネルだったが、経営的には金食い虫のデパートビジネスを下支えして着実に利益を生んだ。いわば内助の功の存在だった。しかしデパートの展開が全米レベルになるとこのチャネルの存在は問題となる。というのも日系店のビジネスはきめ細やかなサービス重視でありデザイン・センスなどは二の次だったから、イメージ重視のデパートとは大きくかけ離れていた。村はずれの萬屋さんのような店も少なくなかったのだ。蚊取り線香や蝋燭とSHISEIDO製品が並んでいたのに驚いたこともある。これも草創期の苦闘の名残りなのだが、デパートビジネスからすれば堪ったものではない。
 僕に与えられたミッションは「利益源としての日系小売店部門の業績は落とさずにイメージ上の課題を解決せよ」。つまりは問題店の整理縮小、ダウンサイジングである。時代の流れとはいえ、一番苦しいときに助けてもらった日系の人たちとその化粧品店なのだ。片やブランドイメージをけん引するデパートビジネス。切り込み隊長としてはハムレットの心境だった。試算では日系上位1/3の店で売り上げ全体の9割を確保できる。残りの2/3を整理すれば売上・利益ともに飛躍的に伸び且つイメージの点からも当初目的を果たせる。3年計画だった。やるしかなかった。
 結果的にはこの計画は成功裏に終わった。だが当初の私のイメージと実際の反応は随分違って、内心当てが外れた。こちらの思い入れや心配は杞憂で、整理対象の大半のお店から解約は理解して貰えたのだ。あっさりしたものだった。後に取引先からこの理由を教わることになる。今思えば笑い話だが取引先のご店主からレクチャーされるというのも喜劇であった。
「しかしハットリさんも日本人ですね!時代が変わればビジネスも変わりますよ。何も負い目に思うことはありません。」このご店主は戦前アメリカの放送局に勤め、戦後はGHQの通訳で来日したという日米の事情通だった。ひとことで言えば取引契約の概念が日本とアメリカで大きく違うというのだ。小売店契約の取引に関して契約書は、日本では一定期間で結ばれ両者に異存がなければ自動更新される。だがアメリカでは一回ごとの発注自体が契約であり、その連続で契約は存続するというのだ。
「嘘だと思うならINVOICE(納品書)の裏を見てごらんなさい。毎回の契約が書かれていますよ。」これは目から鱗だった。確かにINVOCEの裏はびっしりと細かい字で契約内容が埋め尽くされていた。契約社会という言葉を肌身で感じた。ご店主はこんなことも言った。「日本人は垣根の低い民族でね、二世になるとアメリカ人になってしまいます。これが中国、韓国系では、こうは行かなかったでしょう。彼らはこの国で何代経っても中国人であり韓国人です。」
 しかし全ての交渉がスムーズに運んだわけでない。言葉の行き違いと当方の英語力の乏しさから不当解約だとブチ切れられて、サクラメントの州政府に訴えられるというような騒動まで起きた。なんとかお縄ともならず違約金も払わずに凌ぎ切ったが、まさに苦あればらくあり、ほろ苦い思い出である。