賀川豊彦の著作集である『賀川セレクション』を編集である。10冊にしようか20冊にしようか迷っているが、必ず入れようと思っているのが『星より星への通路』というエッセイ集である。神戸での三菱・川崎造船所の大規模ストライキで収監された中でも楽天的にものを考えていた時代の著作である。もちろん、賀川の名はその前の年に出版した『死線を越えて』がベストセラーになったことで津々浦々まで浸透していた。
 この『星より星への通路』で一番短いエッセイ「ノンキ者のノンキ君」を以下に紹介したい。

 ノンキ者のノンキ話
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 世界は終わりが来たところで、それで時間の世界が終わるのじゃあるまいし、世界はそんなに慌てたって片付くものじゃないよ。
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 私は慌て者の情熱家のように云われているが、人間というものはいつも緊張してばかりおれるものじゃなし、真の社会改造なんていうものは笑って暮らす気でなければ、改造なんか出来るものはない。つまり社会改造に、笑殺式社会改造と、泣き虫的社会改造との二通りあるわけだが、私は必ず一つの形でなければならぬと云うことに反対するもので、泣く間にも心で笑うくらいの準備がなければ改造は出来るものではないと思う。
 そこで私は昔から有名であった偉人、学者、社会改造家の笑いを思う。アブラハム・リンコルンは有名な滑稽家であったことは誰も知っていることである。英国十八世紀の宗教運動の中心人物ジョン・ウエスレーが笑いと諧謔の人であったことも有名だ。マルチン・ルーテルも笑いの人であった。米国の宗教運動の大立物ビリー・サンデーは笑いの宣伝者であった。
 ルシアンの「笑い」は古代ローマの文明を笑い殺したと云われている。「笑い」が偶像破壊的の性質を帯びる点において、ドン・キホーテの如き文学が中世騎士道文明の吊鐘となったことは面白いことだ。マーク・トインの諧謔文学を見ても私は深くそれを思う。怒るのも善いだろう。しかし怒ることの社会改造は長くは続かぬ。怒る代わりに笑殺する方が社会改造は早くできる。それで私は大工イエスなどが諧謔のある分子を欠いておらぬことを思うとますます諧謔の社会改造的使命を思う。この点から貝塚渋六こと堺枯川氏などのユーモアには感心せられることが多い。
「まァそんなにムキになるない、少し笑顔でもせんかい」と云いながら社会改造するものには温か味がある。堺氏などに人間味の多いのは全くこのためである。
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 私は何でも面倒臭いことが嫌いで、生活様式の如き出来るだけ簡単なことが好きである。私が最も簡単な生活をしたのは、私が肺病であった時に三河の蒲郡で送った生活であった。あそこの生活は私にとっては最も理想的なロビンソン・クルーソー式の生活であった。初め私の入った室は六畳の離れ座敷であった。そこで私は国木田独歩が日光中尊寺で送った一カ月六円の生活の真似をしようと思って出来るだけ簡単な生活を試みた。私は一カ月十五円で生活する決心をした。村は漁村である。しかし私は菜食主義者であった。
 それで独歩のように六円では生活できなかったが、十五円では易々とそれが出来た。私は「二銭」の芝居を見た。一銭五厘の豆腐を買いに行った。私が机の前に座って本を読み出して、飯を食うことが面倒臭くなった時に本を読みながら飯が炊けるように、凡ての日用品を円形に並べてみた。そしてその簡単な生活を悦んだ。
 自分で生活がぴったりと合っていた。私がも一度一人で生活する機会が与えられるなら私は円形に七輪、炭入れ、土瓶、土鍋、エナメル鍋、茶碗、湯呑みを並べて一人で楽しもう。そこには労働問題もなし、直接行動もなし、階級争闘論も起こらずにすむ。私は私の奴隷であって、私は私の主人公であった。ほんとの世界はこんなに簡単にいくべきものであるかも知れぬ。