昨年10月30日、木浦のオモニと韓国の人々から慕われた田内千鶴子の生誕100年記念行事が千鶴子の故郷高知市と木浦であった。竹島を巡る確執が日韓の軋轢を生む中で木浦と高知だけでは心温まる交流が行われた。田内千鶴子の生涯を振り返り、我々もなにかしなければという思いにさせられた。
 たまたまその時、読んでいたのが清水安三の『石ころの生涯』だった。清水は戦前、約25年にわたり北京のスラムで崇貞学園を営み、貧しい人々の子弟に教育と職業訓練を授けた。このことは山崎朋子『朝陽門外の虹』で知っていた。
 『石ころの生涯』を読み進むうちに、清水安三の北京の知識人との幅広い交流を知り、さらに驚かされた。胡適、李大釗、周作人、魯迅・・・。1920年代の中国を代表する知識人たちである。
 魯迅との交流で知られる内山完造は中国でも日本でもつとに有名であるが、清水安三の名前が日中交流史に出てこないのはなぜなのだろうか。しばし考えさせられた。我々が学ぶ歴史には合点がいかないことが少なくないが、清水安三のことはおかしすぎる。
 魯迅を最初に日本に紹介したのが清水安三だったと知ったら誰もが驚くであろう。そもそも魯迅を内山完造に紹介したのが清水だったのである。
 1920年代に「北京週報」という日本語の雑誌があり、清水自身もその記者でもあった。清水は中国人が近代に目覚めたとされる五四運動に強い関心と理解を示し、当然ながら列強による経済支配に反発する中国の人々に大いなる共感を抱いていた。
 そうした清水の書いた記事の愛読者の一人が大正デモクラシーの吉野作造だった。吉野は他人の本の推奨文などは書かない人だったが、清水安三の著書に巻頭言を送り「清水君の中国情報だけは信頼できる」と絶賛した。
 清水の1930年代における圧巻は盧溝橋事件後の八面六臂の働きであった。北京在住の英米人宣教師、さらには北京大学や北京大学の有名な教授たちから署名を集め、日本の特務機関と北京を守っていた宗哲元に戦闘回避を訴えた。日中の戦闘によって紫禁城や天壇など北京の歴史的景観が焦土となるのをなんとしても防がなければならないと考えたのであった。
「昭和12年7月29日の朝、気が付くと街には兵も巡捕も誰もいない。きのうに変わる今日の姿である。ついに宗哲元は全て兵士7000を率いて北京城から去って行ったのである。そして日本軍は、出城する中国軍に一発の砲撃も加えなかった」というのだ。
 ここまで読んで、ため息が出た。清水安三は単なる朝陽外の聖人ではなかったのである。