組織でなく個を重んじる匠の集団を 龍谷大学 社会学部教授 中野 有

          
 哲学するとは本質を探索することにある。日本人の本質とは。世界の中で日本はどのように映っており、どのような役割を担っているのかということをビジネスと教育の視点を踏まえ考察してみたい。
 世界の様々なところで生活し、異文化コミュニケーションを通じ客観的に感じた一般的な日本人のイメージは、真面目で協調性があり個人を犠牲にしても会社や組織に重きを置くといったところか。
 しかし、日本人は組織や会社が好きかと問いかけてみると、本当にそうだろうか。むしろ日本人はある意味ではすごく個性を重んじる本質的なDNAを持ち合わせているのではないだろうか。
 例えば、多くの日本人がそうであるように、会社員になり毎朝同じ時間に起き、満員電車で通勤し、40年近く同じ会社や組織で勤務する。定年までリスクを犯すことなく安泰な会社人生を全うすることを成功と考えている。東京で通勤するサラリーマンの朝の無表情は、まるで共産主義国家の末期を連想させる悲壮感に溢れている。30年前もそうであったし今も一向に変化がない。恐らく世界中のどこを探しても朝の東京の通勤の表情ほど笑顔がなく画一化されたものはないだろう。
 組織や会社に帰属しなければ生活できないという構造が日本人を組織化していると考えられる。朝の通勤模様から観察されるように本当に日本人は組織に属して幸せなのかと考えさせられる。きっと、日本人は個を磨くことに長けているのではないだろうか。
 それを端的に現しているのが日本のスポーツである。欧米のスポーツはサッカーやラグビー、野球といった団体スポーツが主流である。それに反して日本の伝統スポーツは剣道、柔道、空手といった個を重んじるスポーツである。
 また、グローバリゼーションの世の中において世界で通用する日本の技術は大企業の画一的な製品よりも中小企業の匠の技術に移りつつある。世界のトップ企業は日本の中小企業の匠の技術をアウトソーシングとして活用している動きが増している。
 日本の伝統的なスポーツと匠の技術から観られるように日本人が本来の力を最大限に発揮できるのは「道を極める」ような自分の内部を鍛える個性的な生き方であるようだ。
 産業革命の影響や戦後の米国の共産主義封じ込める政策の一環として大量生産や輸出主導型の産業構造が機能してきた。しかし、平成の不景気の本質は日本人が本来備えている個の能力を発揮する環境が制約されたところにあると考える。
 結局のところ日本の学校教育に行き着く。進学校やトップレベルの大学に入るためには暗記中心の修行の洗礼を受けなければいけない。とにかく考えたり創造したりする個の能力を制限するのが日本の教育である。世界の大学やシンクタンクで習得したことは、自分の頭で考えるという行為である。それもルソーが「自然に帰れ」と唱えるように歩きながら個人の内なる潜在的な能力を引き出しながら考えるということの重要性である。
 日本、それはユーラシアの東の果てに位置する国家。東洋に定住した多彩な血統を持つ柔軟性に充ちた個性的な国家であると思う。アングロサクソンやユダヤ人に見られるように優秀な民族は端にたどり着くと考えると日本人はもっと世界で輝くべきなのである。
 世界のトップ企業は日本人が本来追求してきた個を磨く匠の集団のようなグローバルな経営戦略を追求している。日本も会社や組織の歯車として働くのでなく、個人の力が発揮できる匠の集団としての社会にギアチェンジすることが肝要であろう。久しぶりに上昇気流にある日本の政治・経済において日本人の本質が活かされる社会構造が基盤となることを期待したい。