恩師である中嶋嶺雄先生が2月14日、秋田市の病院で亡くなった。秋田国際教養大学の学長のままである。76歳だったからまだ若い。19日の深夜に友人から「新聞発表は明日だが、関係者には事前に知らせたい」と連絡があった。すでに家族葬を終えていて、後に大学葬をするという話しだった。
 とにかくと思い、22日、東京板橋区常盤台の中嶋先生の自宅に伺い、霊前に手を合わせてきた。そして洋子夫人としばした先生の思い出話をした。
 僕は1977年に東京外国語大学を卒業した。先生は国際関係論の教授だった。僕の卒業論文は「チャンドラ・ボースとインド独立」という先生にとっては専門外の分野だったが、いろいろ丁寧に指導を受けた。
 研究室には伊豆見元という一つ年上の教務補佐がいた。朝鮮問題でよくテレビに出てくる人である。上智大学の大学院に通っていた。僕らは研究室に入りびたりだったが、よく新聞の切り抜きを手伝わされた思い出がある。仕事が終わるとよくみんなで中華の出前をとった。
 夏になると先生の故郷の松本市郊外にある望岳山荘に行った。先生の別宅兼別荘だった。先生はその山荘から見える常念岳をこよなく愛していた。ある日、「朝早く起きると正面に朝日にあたった常念がみえるから」といった。翌朝、早起きすると紫色から赤に染まる美しい山のシルエットを拝むことができた。
 そのころ、先生は学生に「歴史と未来」という雑誌をつくらせていた。卒業論文のダイジェストを中心にいくつか論文が掲載されるユニークな雑誌である。「歴史と未来」は先生が外語大を辞めるまで続いた。その「歴史と未来」を中心に「中嶋ゼミの会」も生まれた。現在、中嶋ゼミの会の会員は200人を越える。
 ゼミの会は当時、まだ始まったばかりで中嶋ゼミの卒業生はあまり多くはなかったが、その中心の一人だった勝又さんは日経の記者を辞めて、先生が建学した秋田国際教養大学に初期からかかわることになった。僕の姉はマレーシアから帰国して先生が理事長をしていた八王子大学セミナーハウスを手伝うことになった。
 それから先生は留学生たちを大切にした。外語大時代に留学生を支援する会をつくり、洋子夫人がお世話をした。正月4日は板橋区の先生の家をオープンハウスにし、ゼミの会と留学生が集まった。なかなかできないことである。多いときは100人を超えたと思う。先生はお酒を飲まないがほんの少しお相伴をして酔っ払うとバイオリンを持ち出して、娘さんたちと合奏を始める。そんな家族的雰囲気が忘れられない。僕は何度か妻も子供も連れて行ったことがある。だから僕の家族にとっても中嶋先生の死は他人事ではないたのである。
 かつては先生の家におばあちゃんもご一緒だった。そのおばあちゃんは開けた人で学生だれとも話しをした。洋子夫人から聞いたことがある話であるが、あるとき、おばあちゃんが電話を取ったところ相手は「台湾のリーです。中嶋先生をお願いします」と言ったそうだ。そこでおばあちゃんは大声で「ミネオー、台湾のリーさんから電話よ」と叫んだのだ。何を隠そう相手は台湾の総統李登輝さんだった。中嶋先生は李登輝総統とそんなふうに信頼されていたのだ。
 ゼミの学生達の多くは卒業後も何らかの形で先生の仕事に関わりを持つことになる。それは先生が個々の卒業生にその後にも面倒をみてくれたからにほかならない。だから多くの卒業生は中嶋先生の家族とも深いお付き合いをさせていただいたのだ。
 先生の家を辞して、夕方の便で高知に向 かう機内の右手に暮れゆく富士が眺められた。隣のおばちゃんは「月に何遍も往復しているけどこんなにきれいな富士山はないよ」と笑顔でした。その向こうに みえるはずの北アルプスの常念岳は雲のかなただった。