オリンピック讃歌 服部 巖
「大きくなったら外交官になって、アメリカに行ってお母さんに電気冷蔵庫をお土産に買う」まだ日本に電気冷蔵庫がない時代だった。小2の時に書いたこの作文をずっと後になって母が見せてくれた。丁度米国駐在前だったから母も思う所があったのだろう。当人も忘れ、外交官にもならなかったし冷蔵庫も買わなかった。しかし当たらずとも遠からじ。三つ子の魂百までを地で行く話にびっくりしたものだ。
このように人には誰でも幼い頃から貫かれているイメージのようなものが確実に備わっているのだと思う。ある時はぼんやりとある時は衝き動かすように身体の芯に潜んでいる。歳をとるにつれ、この思いは年々強くなるようだ。子供は侮れない。「今のこいつらの思いは一生ものなんだ」と最近孫と遊びつつ、つくづくそのように思う。
戦争に敗けて進駐軍が街に来て、アメリカの暮らしや音楽が身近になったせいか僕たちの周りにはいつもアメリカが溢れていた。比較対象がないだけアメリカ一辺倒だった。それに輪を掛けたのがTVの出現だった。少し前に鬼畜英米とか神国日本と叫んでいた時代は一体何だったんだと子供心にも不思議な思いがした。
子供の頃からの思いが突然弾けて一気に昇華したのが東京オリンピックだった。初めて多数の国の中の日本を意識した。そこで健闘する日本人アスリートに、俄か愛国者になったりもした。しかし何よりも胸が熱くなったのは閉会式だった。セレモニーは整然、粛々と行われるべきものとの思い込みは消し飛んだ。
突然入場口から選手たちやコーチがなだれ込んで来た。満面の笑みをたたえてぞろぞろと。国の隔ても勝ち負けも男女の区別もなく、ある者は仲間を肩車し、ある者は手まねを交えて異国の選手と話しに夢中だった。すべてTVの画面を通してだが、この一瞬とこの光景は以後の自分の人生を貫く原点となった気がしてならない。
あの演出は一体誰が仕組んだのだろうか。日本人にはできない演出だと思った。この稿を書くに当たって調べてみて意外なことが分かった。入場準備の態勢が整わぬまま見切り発車で起きたハプニングだったらしい。しかし計算外の効果だった。なかでも印象的だったのはNHKの実況アナウンサーが予定原稿台無しのなかで、眼前に繰り広げられる光景に酔いしれ興奮気味に中継した。アドリブとしては秀逸の実況中継だった。というよりオリンピックの精神は、この光景にこそ極まったと云ってもいい。
毎回の大会セレモニーで使用されるオリンピック讃歌はこの原点を思い出させてくれる。特に印象的だったのはリレハンメル冬季五輪だった。手作りの色合いが強くとても好感が持てる開会式だった。とりわけ国民的歌手シセル・シェルシェブーの歌うオリンピック讃歌が出色だった。
それから以降昨年のロンドン大会に至るまで、このオリンピック讃歌が流れると瞬時に東京のあの感動に直結する。大会ごとに主催国は演出の趣向に知恵を絞るが、このオリンピック讃歌の場面だけは不動なのだ。最近の商業五輪も、このひと時だけはクーベルタンの理想に戻り厳粛な気分になる。そして歌詞が開催国の言語で歌われるのがまた良い。
この原型を作ったのも東京大会だった。第1回のアテネ大会で披露されて後、譜面が散逸し行方不明となった。東京大会直前に譜面が50年ぶりに発見されギリシャのオリンピック委員会から東京に連絡が届いた。そこからの日本オリンピック委員会(JOC)の対応は素早く見事だった。ピアノの譜面をオーケストラ用に編曲し日本語の歌詞まで付けた。その一切のアレンジはNHKが一手に引き受けた。
これが後にIOCの総会に報告され讃歌をオリンピック憲章に明記することが採択された。それ以降の各大会ではこの讃歌の使用が踏襲されることとなった。歌詞を開催国の言語でという規約はないが、よき慣例としてそのまま現在まで続いている。それぞれのお国ぶりを披露すればするほど、それを超える共通の思いと精神が更に際立つ。作為と不作為のこの象徴的な二つの出来事が東京大会を歴史に残す大きな転換点となっているのは、日本人も大いに誇りに思っていいのではないだろうか。
クーデンホフの汎ヨーロッパ運動、クーベルタンのオリンピズム、そして第2次大戦後の世界連邦運動・・・根っこにある共通の因子は、国を誇りに思う一方で国を超えた価値共有の大切さを説く運動の理念にあるといえる。愛国心は時として内向きに作用し外の排除や差別に繋がる危険性を常にはらんでいる。青臭い理想論であるとか現実をみない空論と揶揄されようが、国の論理では制御できない小さな地球を以前にまして真剣に考える時期を迎えているのではないだろうか。