平成25年2月3日 高知県佐川町桜座 東京大学名誉教授 高橋裕

 広井勇生誕150年記念の催しがあると伺い、佐川町は牧野富太郎の生誕地で、しかも牧野は生まれた年が広井勇と同じ年であるということを初めて知った。昨日と今日、高知市や佐川町でいろいろ見学されてもらい、佐川町だけでなく高知県では、土木工学のみならず偉大な先輩が多く出ておられることを知って改めて敬意を表さなければと思っている。
 町長さんが牧野富太郎は全国的にもかなり知名度が高いが、それに引き換え、広井勇はいまひとつだと言ったが、広井勇をもっと多くの人に知ってもらわなければといけない。そんなことがこの催しの動機だったと思っている。
 日本ではインフラを作った人に対する世間の教育は劣っているように思う。英仏独ではまったく事情が異なる。たとえばイギリスではテームス河底トンネルを建設したブルンデルという土木の大先輩がいて、イギリスでは誰でも知っている人物なのだ。BBCが100万人に対して実施した「イギリスの歴史で最も貢献した人物」というアンケートで、一位はチャーチルだったが、二位にブルンデルが上った。テームス河トンネルだけでなく、イギリスの土木工学を今日にあらしめた人物だ。その後には日本でも知られるダーウィンやシェークスピア、ネルソンなどが続く。日本では残念ながら土木技術者はベストテンはおろかベスト20にも入らないだろう。それに値する人は多くいるだろうが、一般の人が知らない。
 だから、そういう人を知らしめるためにこうした催しを開いてくれた町長さんに敬意を表したい。
 去年、11月18日の土木の日に松山氏で宮本竹之輔の銅像が完成した。それに苦労された古川さんも今日見えているが、古川さんは「坂の上の雲」であの三人が大変に有名になった。しかし、松山にはまだまだ立派な人がいる。その一人が宮本竹之輔で、どうしても宮本を知らしめたいと考えて、銅像をつくった。インフラをつくった人に対する国民の正当な評価に対して日本は問題があるんじゃないかと思う。そういうことなら私はぜひともはせ参じなければならないと思った。
 札幌から来た二人に技術的にも学問的にもレベルの高い発表をしてもらった。

 多くのすぐれた弟子を生んだ広井勇
 広井勇は私が生まれた1927年の翌年に死んでいる。残念ながらお目にかかったことはない。広井勇は1899年に札幌から東大にスカウトされている。それから1919年まで20年間、東大の教授として多くの成果を挙げた。学問的成果は枚挙に暇がないが、私はその業績のひとつはその20年の間に、本当の意味の技術者教育をして大変すぐれた弟子たちを生み出したことである。私の主観的評価だが、広井勇の大変な功績だったと思う。
 大学教授の評価には諸説あるが、一般には学術論文である。研究者であるから立派な学術論文をださなければならないのは当然のこと。最近では行き過ぎていて、教授になる資格もうるさくなっている。審査付の論文が10以上なければならないとか、30以上なければいけないという大学もある。そこで弟子たちは大きな論文を四つか五つに分けたりして数を稼いだりしている。大体エンジニアリングは数字で評価される世界でそれが災いしていることもある。だが、本当は論文の数は問題ではないと私は思う
 では大学教授の功績とは何か。大学は研究とともに、教育をする場である。教育の成果は何であるか。私はその評価の一つは、世の中に貢献する弟子をどうやって育てるかだと思う。
 今日の三上さん、栗田さんの話にあったように札幌農学校は立派は教育をしていた。知識さえ与えればいいといのではなく、人格教育、全人教育をして、広井勇ほか立派な人を生み出した。はたしていまの技術者教育はどうなんだろう。私もつくづく思う。私も教授時代、教授にふさわしいとは何かを考え、その時、手本にしたのが広井勇教授だった。私は東大の最終講義で「広井勇を目指して教員生活を送ってきたが、足元にも及ばなかったことを悔いる」と話して締めくくった。
 お前、広井勇先生に会ったこともないのに、どうして尊敬するんだと言われた。専任講師とか助教授の時代、昭和30年代、毎週、教授会があった。私が末席の頃だ。先生方は会議の始まる前や途中でいろいろ雑談をする中に広井勇のことがよく出ていた。その長老教授たちの中で直接、広井勇の講義を聴いていた人はほとんどいなかったが、すでに広井勇は伝説化していたのだ。そんな噂話の中にいろいろなエピソードが出ていた。
「製図室に広井先生が現れて、後ろに立たれると製図が書けなくなった。緊張して叱られるのではないか」「先生は毎日寝る直前に床を敷いて、明かりを消し、正座して30分間、今日一日精魂を込めて学生達を教育したか、反省して翌日の生活の糧にした」。そんな話だった。
 凡人は明かりを消せばすぐ寝てしまう。反省して起き上がっても後の祭りで反省するのは「すぐ寝てしまったこと」ぐらいだろう。

 人類のためパナマに向かった青山士
 全人教育は実は講義で教えるものではない。「みなさん責任感を持ちなさい」「10年先のことを考えなさい」と講義で言っても学生は真面目には聞かないでしょうし、あまり効果もない。その先生の生き方や人生観がどうであるかが伝え伝えられることが大切。あの先生はこういうことを言っている、こういう生活態度だ、それが全人教育で、こうした高壇で話すことではない。それが学生を鼓舞し、学生の人生観を育てるのだと思う。立派な弟子を育てることこそが大学教授の大きな成果なのだ。広井勇の場合、その何人かの例を紹介し、広井先生の生き方との関係をお伝えしたいと思う。
 まずは明治36年に卒業した青山士。広井が東大に行って間もない頃だ。優秀な弟子たちは広井勇の教えてもらったからだけではなく、当時の社会背景からして東大に入る前から相当の人生観を持っていたということは無視できないと思う。青山士は一高時代に内村鑑三の教会に通っていて、人生をいかに生きるべきかを悩み続けていた人だった。
 内村鑑三は明治22年、教会で「後世への最大の遺物」という講演を行った。この話はいまも岩波文庫になっていて、誰でも読むことが出来る。その中で「人生いかに生きるべきか、最も近い道は土木技術者になることだ」と書いている。内村鑑三は河川の土木の現場などを全部見ていたんです。そして、「土木事業は将来にわたって君らの子や孫の時代に役立つ非常に大事な仕事だ」と考えていた。さらに土木技術者になれるのは極めてすぐれた何万人に一人しかなれない人だ。教会での講演だから、君らはそうはいかないということで、最後は勇気ある高尚な生涯を送れと締めくくっている。
その講演は青山が一高に入る前だったが、青山はその考えを読み直接いろいろ教えてもらっていたようで、自分は土木技術者になると考えたきっかけは内村鑑三にあると思う。内村と話をしている間に「そうか君は土木技術者になりたいか、それなら東大の土木工学に行きなさい。そこには僕の同級生の広井勇君がいるから、そこに行って薫陶を受けなさい」と言ったそうだ。
 青山は人生で何をすべきかは決まった。土木技術者である。今度は東大の土木に入ってまた悩んだ。「将来、具体的に何をするんだ」。明治30年代に最も人類のためになる仕事をやりたいと考えた。彼が選んだのはパナマ運河だった。大学を36年に卒業するや否やアメリカにわたった。パナマ運河工事は中断中だった。広井勇からバー教授への推薦状を一枚を持って行った。バー教授はパナマ運河建設委員会の委員の一人だった。そこで約一年アルバイトして、いよいよパナマ運河の工事が始まった時にパナマに行った。
 青山はパナマ運河で7年半、工事に携わった唯一の日本人である。パナマ運河の工事では労務者の一割の人が死んだとされる。そんな過激な工事現場は今では許されない。しかし、たぶん、青山はパナマで満足した生活を送ったはずだ。熱帯で現場には医者もいない。熱帯のマラリヤから黄熱病からひどいところだ。そんなところに勇んで行った。「自分は人類のために仕事をするんだ」と考えたからだ。その考えには「広井勇の超国際的発想」がならしめたものでもあった。一割の労務者が死ぬという現場でも彼はきっと満足だったに違いない。
 パナマでの7年半を終えて帰国した青山は、東京をいまも守っている荒川放水路をつくり、その後、信濃川をいまも救っている大河津分水を新潟土木出張事務所長として建設した。そして昭和6年6月24日(20日に完成した)の完成式で、石碑を建て「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ。人類ノ為、国ノ為」と書いた。私は土木に関する記念碑で最もすぐれたものだと思う。
 しかも日本語の下にエスペラント語でも書いた。昭和初期、エスペラント語は世界共通の言語として普及していた。ポーランドのザメンホフが発明した人造語で、世界の国民は自分の国の言葉とこの共通語のエスペラントを話すことが世界平和のためだと信じた。残念ながら現在、世界共通語は英語になってしまった。
 大正末期に治安維持法が出来て、この記念碑をつくると早速、特高、特別高等警察、思想警察が面会に来た。ようするに特高は自分の分からないことはみんな「非国民」とした。青山はエスペラントなどという危険な言葉を使うけしからんやつだということになった。
 青山は昭和5年に内務省を辞めるが、その後、昭和20年までずっと特高に追い掛け回された。先生が内村鑑三で、日露戦争すら反対した人だから、内村鑑三の弟子はみんなにらまれたのだ。
 青山は昭和63年に亡くなるが、その2年前に静岡県磐田の家に二度訪ねて、その記念碑の話や特高に追い掛け回された話、パナマの話などをうかがった。青山さんの後ろの本棚には内村鑑三全集とシュバイツアー全集がまさに所を得たというよう感じで並んでいた。
「どうしてパナマに行く気になったのですか」と聞くと
「広井先生の影響だよ、若気の至りだよ」と照れていた。

 台湾に骨を埋めた八田与一
 明治43年に東大を卒業した八田与一は、古川さんが「台湾を愛した日本人」という評伝を書いたからご存知の方も多いと思う。
 八田与一は大学を卒業するや否や台湾に渡った。台湾のために自分は働くといって烏山頭ダムという当時、東洋一のダムをつくって、嘉南平野60万人が洪水と渇水と塩害に苦しんでろくろく農業生産も出来なかったのを救った。
 八田与一は「一度行ったら現地の人のために働くのが土木技師だ」と考えたが、広井勇も同じことを言っている。海外で仕事をするときに東京の本社にばかり目を向けている人間は技術者ではない。八田与一は台湾に骨を埋めるつもりで行き、本当にそうなった。奥さんも夫と同じだった。だから八田が亡くなった後も日本には帰らず、戦争が終わった直後に自ら命を断っている。奥さんは戦争が終わって日本に帰るような人の言うことは聞かなかった。
 毎年5月8日、八田与一の命日には地元の台湾人200人、故郷の石川県から100人が慰霊祭を行っている。亡くなって70年も経つのに何百人もの人がお墓参りをする。数年前から台湾の馬英九総統も参拝している。そんなことがほかであるだろうか。
 外国へ行ってそこの人たちのため働くという広井精神。大学を出てすぐ台湾に行ってそのまま台湾で亡くなり、まさに骨を埋めに行ったのが八田与一だった。

 世界初の海底トンネルを掘った釘宮磐
 明治45年に卒業した釘宮磐。世界最初の海底トンネルとなった関門海底トンネル工事の初代所長だった。幸いにして私は東大の第二工学部の時、釘宮さんの講義を受けるチャンスがあった。第二工学部は昭和16年にできたが、ほとんどの教授を現場からお呼びした。鉄道あるいは施工については現場から釘宮さんを招聘した。東大に夜間があったのかという人もいるが、私は昼間に通ったのだ。
先生には申し訳ないが、講義内容は忘れてしまっている。覚えているのは体験のエピソードとか、あるいは先生が失敗した話とか先生が間違えたことはばかりだ。釘宮さんの体験談が面白かった。他の先生が面白くなかったというわけではないが。関門トンネルで苦労した話とかは面白かった。
先生はあだ名が「君子」といった。非常な人格者だった。父親が神田のニコライ堂におられて、敬虔なロシア正教徒だったから「君子」と呼ばれても当然だった。だから釘宮さんのお葬式もニコライ堂であった。
 釘宮さんの話にいろいろ外国の話が出てきた。外国のことをきちんと勉強しろと広井勇から教わったと言っていた。
 大正になって宮本竹之輔とか石川栄耀とかも広井勇が現役だった時代に東大を巣立っていった人材だ。宮本も非常に特異な人生を送った人で、他の人と同様にしかるべき人生観を固めてから東大に入ってきた。そして東大に来て国際的感覚を身に着けた。いまでは国際的感覚を養うなど当たり前だが、当時は時代が違った。明治、大正時代にはそういう感覚を教えるというか、学生に漂わせることのできる教授が少なかった。
 大学を出るなり台湾に行った八田与一だとか、人類のためとパナマに行った青山とか、宮本は外国には行かなかったが、出張などで外国に行ったとき、宮本が見たのは普通の土木現場だけでなかった。イギリスではフェビアン協会や労働党も訪ねている。大変に視野が広かった。土木は土木工学だけを勉強していてもだめなんだと考えた。それも広井精神だと思う。
 昭和16年126月24日に49歳で亡くなったので、お目にかかっていない。ただ彼の書いたものとか、東大で講義を聞いた人の話は聞いた。そこで宮本は外国のことになると広井勇のことを話したそうだ。
 そもそも宮本は見識の広い人で、一高時代は芥川龍之介や久米雅夫、菊池寛と同級で、小説家になりたかったで、文才もあった。いまの土木の人は外国へ行っても現場を見て土木の先生に会って、後は観光で終わる人が多い。もともと見識が広かったうえに、広井勇と出会ってさらにものの考え方を広げることも教わったようだ。
 広井勇が57歳ぐらいの年のころの学生に石川栄耀という後の都市計画の大家がいた。「都市計画というものをどう考えるか」を教えた。人々を愛すること、都市を愛すること、それが都市計画であるというのが石川栄耀の考えだった。
 幸いにして私も学生のときに、石川栄耀さんの講義を聞くことができた。東大時代、一番面白く、ためになった講義だった。石川さんは講義中に学生がノートを取ることを一切禁止した。家に帰って記憶に基づいて書きたい人は書けといった。講義中も教室を歩き回って、黒板にはめったに書かない。それは広井勇とは関係ないが、視野の広さ、ものの考え方を教えた。
 都市計画は経済的な計算をして数字をはじいて図を書けばいいというものではない。都市の人を愛することが都市計画である。栗田さんの話にもあったが、広井勇は小樽港の工事の時にも現場で働く人たちを非常に重んじていた。宮本は大河津分水の工事中、昭和2年から6年、毎晩のように現場の人と一杯飲んでいたらしい。高知県は一杯飲むことが大変重要だと聞いているが、毎晩、労務者とか地元のボスとかと酒を酌み交わして、自分から改修の歌を作詞してみんなで歌うとか、広井の影響を受けていた。

 100年先まで責任を持つ工事
 1899年から1919年まで20年間、紹介した人は一部だが、広井勇のもとで東大を出た人たちが、明治の終わりから大正、昭和の初めにかけて日本のインフラをつくった中心人物となった。ただ土木事業をしたというだけでなく、重要なことはそれぞれの仕事に魂を入れたということだ。青山士の大河津分水の記念碑が示すように工事を完成すればいいというのではない。それは何のためにそして何年間責任を持つのか、まで考えた。
 青山文庫に展示されているように、広井勇は自分のつくった仕事について、たくさんのテストピースをつくって、毎年試験しようとした。鉄筋コンクリートを防波堤に使ったのは初めてで、耐久度が分からなかず、10年たって、20年たってどうかなるか分からなかった。だからたくさんのテストピースをつくって、毎年それを破壊試験をした。それは自分がつくったものに対して100年後まで責任を持つという考え方だ。
 つまり土木事業は内村鑑三が話したように、「子供のため孫のため子々孫々のためにつくるから価値がある」というなら、その何十年先までも自分がつくったものに対して責任を持つ、それが本当の土木技術者のあるべき人生であるというのだ。それが広井勇の教えたものだ。
 私がいま、責任感を持てといっても全然、迫力がないが、小樽港でテストピースを100年間使うものをつくったということはすごいことだ。さきほど栗田さんの話があったが、工事中にクレーンが倒れるという大変なことがあったとき、これがうまくいかなければ、自ら命を断つという心構えだった。それくらい自分の仕事に対して生命をかけていた。話によれば、その時、広井はピストルを持っていたという。どうしようもなければ、自らの命を断つ覚悟があった。
 日本三大名橋の一つ、九州の通潤橋の完成式のとき、その設計者は短刀持って立ち会ったという。もし水が吹き出なければ、その場で割腹自殺するつもりだった。つまり土木技術者は自分のつくったものに生命をかける、100年先までも責任を持つ、それが広井魂でしょうね。
 私も含めて、最近の技術者教育でそういう全人教育がちゃんとできているであろうかと考えることがある。特に第二次大戦後の教育は土木に限らないが、ものをつくることのみ集中しすぎて、つくったものに対する責任感やそれに命をかけることがない。どうももののつくり方、計算の仕方、そういうもののみが教育であると思わせるような、本人はそうは思っていなくても結果としてそういうことになってしまっていないか。
 広井勇という人の生き方を多くの日本人に知ってもらうとともに、教育に携わるものは知識を売るのではなく、より大切なことは何かを反省すべきときであろうと思う。残念ながら町長さんも心配になったように牧野富太郎の方が有名だ。牧野の偉大さを否定するものではないが、この町は広井勇という日本のインフラの基礎をつくり、そのつくり方の精神、人生観を伝えた人物を生んだことをぜひ誇りにして、少なくとも佐川町で牧野と同等以上に広井勇を知らない人は一人もいないようにしてほしい。さらには高知県で広井勇をみんな知るようになってほしい。あわよくばイギリスやドイツ、フランス、アメリカで土木技術者が知られていて、通りの名前にしたり広場の名前にしたり、義務教育で教えているように全国民がみんな知ってほしい。高知県ではぜひ広井勇を副読本で広めてほしい。
 松山では古川さんのお陰で宮本竹之輔の知名度が急上昇していたと思う。宮本の先生が広井勇だから、四国で連携して日本のインフラの魂を築いた日本の大先輩をみてほしい。名前だけを知っていても仕方ない。その生き方からどう学ぶべきかが、これからの技術者教育の大きな柱になるべきだろうと思う。
 日本中の土木技術者や土木技術の先生がただ、ものの作り方を教えるのではなく、その技術魂というと昔くさいが、どういう考えで技術者としての生涯を送って、弟子たちにどういう影響を与えたかということを、今日の催しを契機として、土木の人間が思い、自ら実践しようとすることが他の人にも感銘を与えるのだ。
 今日の催しがそういうことにいささかなりとも役立てば大変ありがたいと思う。会場には高知県の人が多いと思うが、東京からも高松からも愛媛県からも来ている。それぞれの郷里でインフラに貢献した人物がいるはず。日本中でいかにインフラ整備が重要であるか。それは子々孫々まで影響するからだ。インフラの重要性は100年先、1000年先まで長い目でみて、責任をもち、自分のつくったものに命を懸ける技術者のあり方であり、それを教えることが土木工学の教授たちの大事な使命である。これを契機に今後すぐれたインフラが次々とつくられることを期待してやまない。