ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠、1867 – 1940年)
 ホーチミンと並ぶベトナム独立の父。日露戦争の日本勝利に刺激を受けて、百年前のルック・イーストともいえる東遊運動(トンズイ)運動を起こし、祖国独立を目指した越南光復会を率いて植民地支配に抵抗を続けた。
 十八世紀のベトナムは南北二つの王朝に分かれていた。一八〇〇年代初頭、阮福映がユエに統一王朝を築いたが、統一の際にフランスの力を借りたところから、フランスに浸食を許し、百年もたたずにベトナムはフランスの保護国となった。『ベトナム亡国史』でファンは「ベトナムの財産をただ取りするために、五大州の文明国は悪知恵の全部を集めたところで、思いつくことのできないようなあくどい方法でフランスは苛斂誅求をかさねた」と書いている。
 ファンはベトナム北部のゲアン地方に読書人の家庭に生まれ、地域の科挙に首席で卒業するほどの秀才だった。一九〇三年、ユエの王室の王子、彊柢(クオン・デ)侯を越南光復会の党首に仰いで、独立運動に入った。
 一九〇五年、国禁を犯してた日本に渡航、多くのアジア主義者の支援を得て、武力闘争より人材育成の必要性を痛感した。ファンは『勧遊学文』を書いて、青年たちに日本への遊学を勧めた。東遊運動である。ファンはまずクオン・デ侯に先頭に立つよう要請し、侯は船の火夫に身をやつし、石炭の中に身を潜めて日本に到着した。侯の日本密航は多くのベトナム青年や知識人を鼓舞した。一九〇五年に始まった遊学は〇八年までに二五〇人を超えた。すべて当時のフランスの警戒網をくぐり抜けた密航である。
 彼らは振武学校や東京同文書院などで学ぶ、中には後のホーチミンの側近の一人となるグエン・ハイタンらもいた。クオン・デ侯とファンは犬養毅や頭山満、大隈重信、後藤新平、近衛篤麿ら有力者と精力的に接触しただけでなく、当時、日本を拠点としていた中国の革命家たちとも深く交わり、期待を膨らませた。
 しかし、留学生たちの期待とは裏腹に日本政府はアジアの革命家に冷たく、一九〇七年には孫文らとともにファンらは国外追放されてしまい、東遊運動は短期間で終わってしまう。
二人はその後、広東や香港を中心に独立運動を続けるが、ファンは一九二五年、上海でフランス官憲に逮捕、ベトナムに連行され、終身刑を言い渡された。クオン・デ侯は後に日本に再び亡命、流転の日々を送り、再びベトナムに帰ることはなかった。
 昨年五月、ファンが、潜伏先の中国から犬養毅元首相の盟友に宛てた未公開の書簡が成田市で見つかった。(萬晩報 伴 武澄)