内山完造(1885-1959)戦前、上海の租界に内山書店を開いて、大繁盛し、魯迅など中国の知識人との交流を深めただけでなく、日本の言論人と中国人を結びつけた歴史的功績は小さくない。たぶん、中国で最も尊敬される数少ない日本人の一人といっていい。

 現在の岡山県井原市に生まれ、12歳の時に大阪に丁稚として働き、後に京都の商家で働いていた時、牧野虎次(後の同志社総長)という牧師と出会い、28歳で大学目薬参天堂の上海販売員として中国に渡る。大陸への関心が高かったようで「血湧き肉躍る」思いだったそうだ。当時の目薬販売員は商品を担いで廻る必要があった。内山は上海から揚子江を遡り流域に販売網を築くだけでなく、当時としては珍しく庶民の目線から中国社会を見つめた。
1917年に内山書店を開設。当時、中国では陳独秀の雑誌「新青年」がブームとなり胡適らによる白話運動をきっかけに一大文芸復興が上海を中心にわき起こった。その影響で多くの文人や学生たちが日本語で書かれた西洋の政治、哲学書を求めたため、内山書店は瞬く間に上海の知識人たちのサロンと化した。

内山自身、中国に関する多くのエッセイを書いたが、当時の日本人が抱いたイメージと正反対の中国を紹介した。親交が深かった魯迅が「内山は中国をよく書きすぎる」と度々口にしたように、そこには圧迫され貧困がはびこる中国への独特の思い入れがあった。

内山の中国感が育まれた原点は目薬の行商にあったと思われる。内陸を含め津々浦々を旅し、日々の中国人との接触から貧困の原因を考え、この国をなんとかしなければならないという使命感が生まれたという。当時、「中国人も日本人も同じ血が流れている」という思いを抱いた日本人は数えるほどしかいなかったはずである。クリスチャンであり恩師であった牧野虎次の影響も大きかったともいわれる。

内山にとっての幸いは魯迅との出会いがあったことである。1927年、国民党に追われて北京から上海に活動拠点を移したばかりの魯迅が店にやってきたことから交友が始まる。魯迅はすぐに内山書店の近くに住居を求めた。魯迅は36年に亡くなるので交友の期間は10年足らずだったが、互いに肝胆照らす中になった。その後も魯迅は上海で度々、国民党や日本の特務に追われたがその度ごとに内山は身を擲って魯迅を守った。魯迅の絶筆となった文章は内山に宛てたもので、「ぜんそくがひどいので医者を頼んでくれ」という内容だった。葬儀では宋慶齢らとともに葬儀委員となり弔辞を読んだ。

終戦とともに内山書店は接収され、帰国して神田に内山書店を開くが、1950年には日中友好協会をつくり初代理事長に就任。病気療養のため北京を訪問中に死去し、上海に埋葬された。
上海・四川北路にあった内山書店は現在、中国工商銀行となっているが、1981年に記念碑が建てられ、現在はその二階に内山書店記念館が設けられている。

著作に魯迅が序文を寄せた『生ける支那の姿』や『上海漫語』などがある。