ラビンドラナート・タゴール(1861年-1941年) ベンガルが生んだ詩人であり思想家である。岡倉天心を通じて日本とのつながりが生まれ、イギリス統治下でアジア人としての意識に目覚める。詩集『ギータンジャリ』を英文で出版したことにより、1913年にアジア人として初めてノーベル文学賞を受賞した。
 タゴールはコルカタの名門家の7人目の子として生まれたが、タゴール家は元々、東ベンガルつまり現在のバングラデシュにあった。領地シライドホの自然を愛し、若い日に度々訪れた。ボートハウスに滞在しながら川を巡り、村の農民たちの生活や祭りを知った。ベンガル文学の担い手や宗教歌謡の歌い手、吟遊詩人らと出会ったことが、その後、詩人へと変貌するきっかけとなった。
 世界的には詩人として知られるが、音楽、舞踊、演劇、絵画など幅広い分野で足跡を残したことはあまり知られていない。1898年、37歳のとき、シャンティニケタンに学舎を建設、古代の森の学園をモデルに緑豊かな学園を創設して活動の拠点とした。現在はタゴール国際大学の名で通っている。
 日本とのつながりは、1902年にインドを訪問した岡倉天心との出会いを通じてもたらされた。天心もまたインド滞在中に英文の著作『東洋の理想』をものにするなどインドに開眼する。タゴールは西洋の科学に対してアジアの精神性を強調し、アジアの文明の源流をインドに求めた天心の強烈な個性に共感したといわれる。1916年の初来日では国を挙げての大歓迎を受け、日本にタゴール旋風を巻き起こした。特に東京大学での講演「インドより日本への使信」は有名である。孫文が1925年に神戸女学院で行った「大アジア主義」に匹敵する講演である。天心はもはや亡き人となっていたが、天心が残した茨城県五浦(いづら)の六角堂を訪問、横山大観や荒井寛方ら日本画家から多くの影響を得たといわれる。
 政治的には終生、反英の軸足は揺るがなかった。1907年、イギリスがベンガル分割令を打ち出すと反対運動に参加、その時、タゴールが書いた愛国歌が集会で唱われるようになり、その一つが独立後、インド国歌となり、さらにバングラデシュ国歌ともなった。
 ガンディーとの親交は1914年、まだ南アフリカで弁護士だった時代にシャンティニケタンにタゴールを訪問したときから始まった。1930年ロンドン滞在中、ガンディーが反英闘争の一環として敢行した「塩の行進」で逮捕されると、イギリスの対応を非難、オックスフォードで後に「人間の宗教」として知られることになる連続講演を行った。1932年からガンディーが獄中で断食を行うたび、イギリス政府に抗議の電報を打ち支援した。
 晩年は日本の中国侵略に批判的となり、インド国民会議派が分裂の危機に陥った1939年、穏健派のネルーと急進派のチャンドラ・ボースとの亀裂を修復するため会談を実現させるなど尽力した。
 1941年8月7日、80歳の天寿をまっとうしたその4カ月後、日本による真珠湾攻撃で、日米が開戦した。