高知市土佐山支所の岩崎さんと話をしていて、この岩崎さんも岩崎鏡川の縁者であることが分かった。

「田中英光を知っていますか。太宰治の墓前で自殺した文学者です」
「その人、ロサンゼルス五輪に行った人でしょ。この前、読みました」
 高知新聞の論説委員をやっていた山田一郎が高知新聞に「南風対談」を連載していて、その単行本を読んだばかりだった。水泳1500メートル自由形で優勝した北村久寿雄との対談で田中英光がボート選手としてロサンゼルス五輪に出たことが紹介されていた。高知県から5人もの代表が五輪に出場したというから、当時の高知県の運動選手のレベルは相当に高かったといっていい。
「そうボートの選手で早稲田大学の学生時代に五輪に出場し、後に文学者になりました。土佐山出身の歴史家、岩崎鏡川の息子です」
 ちなみに父親の鏡川もまた文学を目指したが、後に文部省の役人になって明治維新の資料整理にあたった。代表作は『坂本龍馬資料集』である。当時はまだ幕末関係者が多く生きていたため資料集の編纂を可能にした。鏡川のこの資料集がなかったら司馬遼太郎の『龍馬が行く』も書けなかったかもしれない。
 数日後に図書館に行って探したら11巻の田中英光全集まであって驚かされた。全集は東京五輪の翌年、昭和40年、東京の芳賀書店から発行されていた。英光の代表作『オリンポスの果実』を借りてきて、昼下がりのせせらぎで早速読んだ。
 同じロサンゼルス五輪に出場した女性アスリートとの淡い恋を描いた青春小説で、昭和15年に池谷賞を受賞した。全集には亀井勝一郎が「文化の碑――太宰治と田中英光」と題して英光の自殺について書いている。
 昭和24年11月3日に太宰治の妻とお嬢さんを誘って音楽会に行った。「今ごろ田中英光はどうしていらっしゃるかしら」と話題になった時、田中は三鷹の太宰治の墓前で自殺していたのだという。
 田中英光といっても今知る人は少ないが、終戦後の若者の本棚には太宰治と並んで田中英光の本が一冊や二冊は並んでいたのだそうだ。
 田中英光が当時の青年たちに人気があった理由がある。まずはオリンピック選手が小説を書いたという点である。世界広しといえどもオリンピック選手が運動以外の分野で成功したという話は聞かない。その点で北村久寿雄もまた特異な人生を歩んだ。14歳9カ月で金メダルを取り、オリンピック後、勉学に励んで東大法科に進み、三井物産に入り、戦後は労働界で重きをなし、住友重機や住友セメントの役員となった。
 もう一つは田中英光が書いた『オリンポスの果実』は戦前の輝かしい日本人たちの物語だった点である。敗戦によって米国の占領下にあって打ちひしがれた日本人たちに歓迎されたのは当然だった。解説を書いた奥野健男は「わがもの顔の米兵たちに昔は日本人だって相当なものだったんだよと言ってやりたいような変な衝動にとらわれた」と述べている。
 いやはや土佐山で文学まで読もうとは思わなかった。まして太宰治にまで出合うとは。