永野干城さんに土佐山に電気が来たのはいつのことか聞いたことがある。
「昭和の始めかな、でも平石とか中心部だけのことじゃった」
 干城さんは北の工石山の方を見詰めながらぽつりと言った。
「村に電気会社ができたんですか」
「そんなもんはないない。ほかの村のように村の電気会社はなかった。高知県が電気事業をやっていて、当時は電灯一ついくらという具合に料金が決まっちょった。でも高川の奥の城(じょう)に電気が通ったのは昭和30年代で、もう四国電力の時代になっちょった」
 小さな山村ではあったが、電気が普及するのに30年もかかった。30年といえばサラリーマンの一生にあたる。僕が定年を迎えたばかりだから30年という年月に一定の思いがある。
 そういえば、三重県の熊野全体に電気が通ったのも昭和30年代だった。日本中に電力が行き渡った時期であるが、日本で炭焼きがなりわいとして衰退した時期と重なる。炭やまきが電気に代わったのではないが、日本の山の生活が大きく変貌した。
 つまり山のなりわいだった炭焼きと養蚕、紙梳きが成り立たなくなった。一方で、村に立派な道路ができた。人々は村が繁栄すると思ったが、起こったことは逆だった。村人がどんどん町に出て行ってさびれていった。
 山の風景も一変する。植林である。炭は樫や椎などの広葉樹で焼く。養蚕には桑の葉が必要だった。和紙の原料はコウゾ・ミツマタで大人の背丈ぐらいしか大きくならない。山の植生の中心は広葉樹と桑とコウゾ・ミツマタばかりだった。
 今の土佐山の大半を占めるスギやヒノキはもとからあったものではない。干城さんにいわせれば、昭和30年代に植林されたものなのである。日本の植林は古来からの固有の文化であったとされるが、大規模なものは昭和30年代に始まったのである。農水省が「50年後には育って木材として売れる」と旗を振った。中国ではないが日本山村の大躍進運動だったといってもいい。
 干城さんがまたつぶやいた。
「杉林に入ったらようけ石垣があるろう! ありゃもともとは段々畑やった。畑まで潰して植林をした。そのころの植林事業は苗木一本いくらといって助成金が出たからのう」
 植えれば植えるほど金になったというのだ。
「いま間伐、間伐いいよるけんど、あと先考えずに植えたから今になって手間がかかるこのになった。それから50年が経ったが、ヒノキらぁはまだ細っそい。役人の言うことはみんなウソじゃった」
「干城さんは村を出たことはないんですか」
「昔、長男は家を継ぐことになっちょった。だから学校を出ると家の仕事を手伝った。ずっと農業よ。ところであんたは高知のどこぜよ」
「西町です」
「西町といえば広田という家があろう」
「それは実家の隣です」
「そうか、その広田の妹がわしんくの嫁よ」
「えっ、それは驚きました」