アカデミーが始まったころ、おちょうさんが「近所に人から、あなたたちはお客さんやからと言われた」と話してくれた。歓迎会があり、神祭に招かれたりと山の人たちと交流する集まりが続いて浮かれていた僕たちはその一言でシュンとなった。
 そりゃそうだ。山の人たちはアカデミーが何を目指しているかまったく知らないだろうし、受講生は3カ月したらいなくなる。お客さんと言われれば否定できない。でも9人の受講生たちは何かをこの山村に求めていた。
 それから3カ月。この山村に住んでみて村のことを何も知らないままでいることを改めて知らされている。特に僕たちの住む高川のシェアハウスは市営住宅で、ご近所の人たちも村の外から来た人ばかりだから、あいさつ以外に日常の交流はない。
 平石に住むおちょうさんや原っち、桑尾に住む高田夫妻のように朝、玄関先に採れたて野菜が置かれることはない。正直うらやましかった。
 一方で、炭焼きやイノシシ解体などアカデミーの授業に労を惜しまず協力してくれる人たちも少なくなかった。勇作さんは早朝の豆腐づくり、豆蒔き、栗拾いに誘ってくれて時々アカデミーにご機嫌伺いに来てくれた。おちょうさんは早くから車さんのパンづくりを手伝い、岡っちは大崎さんの土佐ジローの養鶏場に出入りするなど積極的に村の生活の入り込もうとしていた。
 誰かが言っていた。
「大切なのはアカデミーの授業ではない。山の生活を知るということは隣のおばあちゃんの話をとことん聞くところから始まるんだよ」
 どういうわけか、気さくに遊びにおいでと言ってくれたり、アカデミーに話をしに来てくれる人は外からの移住者が多かった。アカデミーで学ぶ知識や体験はどうやら、本当の山の生活とは別物なのであろうということを自覚させられたのは最近のことなのだ。
 中切地区の鎌倉さんが、僕の出演した高知放送のラジオを聞いてくれていて、地区の集会で「日本経済と山村経済」について話をしてくれと言われたときは嬉しかった。8月5日の日曜日に集会の後、居残ってくれて話を聞いてくれた。
 竹細工の下村一歩さんのところに言って話を聞いたとき、スタッフの堪ちゃんが「どのように山の人たちに溶け込んでいったのか」と質問した。
 一歩さんは10年ほど前に炭焼き竈をつくりたくて土佐山の隣の鏡村(当時)に移り住んだ。移り住んだといっても祖母が農業をしていたところに家を建てたのだから、まったくの赤の他人ではない。堪ちゃんは高知県でも西部の越知町の育ちで土佐山に住み初めてまだ1年。懸命に溶け込もうとしているのだが、自身で歯がゆさを感じているようだった。
 一歩さんは「この地区の人たちは会えば酒を飲むんです。それもお湯割りをした焼酎を一升瓶に入れてあおる。僕はあまり酒が強くないんです。普通かな。それでもなるべく地区の飲み会には参加しようとしてきました。仕事とかあってまだ7割ぐらいしか参加できない」と答えた。
 そこで僕はちゃちゃを入れた。
「僕なんてお酒が好きだから、万難を排して参加しちゃうな。キムもそうだろうと思う。何もすべてに参加できなかったからとギルティになる必要のないのじゃない? 地区の人だって全員が毎回参加できるはずもないし」
 みなが笑った。
 原っちが物部村谷相に移り住んで陶芸をしている哲平さんを訪ねたときの話をした。
「哲平さんはもともと職人肌で近所づきあいなどしていなかったが、親しくしていた人と地区の世話役をするようになってから祭りの手伝いを始め、子どもが学校に行くようになると自然、溶け込み始めたと言っていました」
 思い出すと哲平さんは移り住んで10年経っても「外人」なのだというようなことも言っていたような気がする。
 個人的に、僕は高川のシェアハウス周辺の掃除にいそしんだ。玄関前の芝生の草抜きは大変だった。2カ月かかってもまだ終わっていないが、ようやく芝生が伸び始めた。たぶん来年の夏は元の木阿弥になるだろうが、一夏でもきれいになればいいと思っている。もともと僕は草抜きが趣味なのだ。道路周辺の草はぼうぼうで、ツツジの木も伸び放題だった。エンジン付きの草刈り機を借りたが、切っても切っても草は伸びる。木にはツルが複雑にからまる。家の前の幅30センチほどの溝は土が埋まりその上に草が繁っていた。思い切ってドブさらいをした。早朝の作業だからこれには3日かかった。1人だけおばちゃんが車を止めて「きれいになったね」と話しかけてくれたには嬉しかった。
 思い出した。僕は土佐山で自由民権を考えるはずだった。平尾道雄の本を1冊を読んだだけて終わっている。いけない、いけない。あと1週間しかない。