水の文化の最新号が届いた。「愛知用水50年」が特集で、なかなか読み応えがある。編集部からのページに新見南吉のいい話が出ていたので、転載してみなさんに読んでもらいたい。
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 知多・岩滑(やなめ)の出身である童話作家新美南吉は、身近な溜め池をよく描いた。『おぢいさんのランプ』は、生前に刊行された唯一の童話集に収録されている話で、孤児だった祖父巳之助が文明開化のシンボルとしてランプ売りになるが、やがて村に電気がくることで失業してしまう。一時は逆恨みする巳之助だが、思い直して、古い自分と決別して本屋になる。
 巳之助は孫に「日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていたむかしの方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえことはけっしてしないということだ」と言い聞かせている。
 ランプを割って商売を辞める決心をする舞台には、知多の象徴としての溜め池が選ばれている。そこには「後ろを振り向かないで、前を見る」という気概が描かれているように思う。
 南吉の物語はいつも切ないのだが、読み直して改めて気づいたことがあった。ごんぎつねも含めて南吉の童話の登場人物は、いつも過ちを犯してしまう。しかし、そのままでは終わらずに自らの非を詫びるのだ。詫びられたほうも、謝罪を受け入れ許してやる。人間は弱い存在で、互いに弱さがわかるから思いやることができる。そして、互いがあるから諦めずに前進できる、という南吉の希(ねが)いが込められているような気がする。
 愛知用水運動の中心となった久野庄太郎さんは、牧尾ダムの工事で56人の犠牲者が出たことにずっと苦悩し続けたが、〈不老会〉をつくることで供養の道筋を見出した。自分たちが水を得た代わりに、家がダムの底に沈み故郷を離れざるを得なかった人たちのことも、生涯忘れなかったに違いない。
 歴史に「もしも」は禁句だが、久野さんという人がいなかったら愛知用水は実現されなかったかもしれない。しかし南吉の童話を読むと、何年か待てば久野さんのような人物がまた立ち上がってくるかもしれない、と思わせる希望が湧いてくるのである。

 水の文化 http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/index.html (最新号はまだ掲載されていない)