世界連邦建設同盟発行の「世界連邦思想の系譜」1968年発行を、調べ物をしているとき偶然手にした。これは日本における世界連邦思想の系統関係を掲載したものである。対象とされた人物は、小野梓、尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎、笠信太郎らであり数名が執筆している。どれも興味深い内容ばかりである。
 私としては当然賀川の記事に注目するのだが、これが面白い。これまでは日米開戦前秘話として、賀川の訪米平和使節団が近衛首相の密命を帯びていたことを明治学院大学の園部不二夫氏の記述によって伝えられているが、この掲載記事は小塩完次(国際平和協会元理事)によってさらに詳細に、以下のことが描かれている。
 日米開戦の直前、近衛首相は神経の尖った軍部を避けて、ひそかに賀川と会った。それは戦争回避の和平工作を依頼する目的だったが、こんな緊張時に怪しまれずに出向くには、不信を抱かれないようにしなければならない。そこで足を向けたのは、有馬頼寧私邸であった。
 その工作の内容とは、大伝道者のスタンレー・ジョーンズから持ち込まれた話として、日本にニューギニアを買ってもらって、発展する日本にハケ口(人口の)をひらき、日米戦争を不発に収めようとの計画を「近衛・ルーズベルト会談」として太平洋上でやろうというのが要旨である。
 園部説では、日中の泥沼化した戦争状態の解決の手段として、ルーズベルトに両国の仲介をしてもらうという内容であったが、この記述では若干印象が異なる。そして賀川ら平和使節団の訪米となるのである。小塩はここで、「賀川ミッションの大芝居」と表現している。
 小塩の「日米開戦秘史」はさらに続く。この平和使節団の起こりは、世界連邦日本国会委員会の副会長を後につとめる福田篤泰(当時は外務省情報局秘書課長、後に吉田茂首相秘書官となる)が発意、企画、推進したと述べられている。発案以来深い関係をもった、筧光顕(YMCA元主事、立教大元教授、国際平和協会元役員)は「最後の日米和平工作」という文でこのことを詳細に述べているとされている。 以下、参照先から引用しよう。
「それは1941年(昭和16)1月下旬のある春めいた午後であったと記憶する。丸ノ内のある喫茶店で、コーヒーを飲みながら、日本をめぐる世界の情勢を語り合っていた二人の日本和平論者の会話から、偶然に近い状態で生まれた着想であった。その二人とは、いまの外政研究会理事長福田篤泰代議士と筆者(筧光顕)であった。福田代議士は当時、若い外務事務官で、情報局情報官をかねていた。
 その日は、福田氏は非常に思いつめたように「このままにしていたら日米は必ず衝突するにちがいない。そうなることは、結局は共産ロシアの勢力拡大以外には、日米両国にとってなんの利益もないばかりでなく、人類のための大きな不幸である」と、しみじみ、わたくしに語った。それから種々話をしているうちに、氏は真剣な調子で「なんとかこの危機を打開する方法―と言っても、誰れかそういうことができる人はありませんか」と言い出した。福田氏は「日米関係は、今はもう外交官―野村大使のような特別な人であっても―外交官の手に負えないところまできています。だから、一層高い立場で話のできる人、宗教家のような立場にいる人が出ないと、どうにもならないと思います。誰れかキリスト教界に、そういう人はありませんか」と、たたみかけて、わたくしにたずねた。
 そのとき、わたくしの脳裡に浮かんだのは、それより約10年前、YMCAの世界大会関係の大講演会が、米国クリーブランドの大公会堂で開かれた時の賀川豊彦君の姿であった。彼は一万に近い大聴衆に、文字通り大獅子吼をした。荒けづりな、荒野に叫ぶ予言者ヨハネの声のごときものであった。聴衆は魅せられるように聞き入っていたが、殊にアメリカの物質文明を強く非難して、アメリカ国民の精神的覚醒を促すところには、万雷の拍手を浴びせた。聴衆は賀川豊彦―欧米のキリスト教界の指導者たちの言葉を借りれば、いま生きているクリスチャンの内で最大の人物(グレイティスト・リビング・クリスチャン)から叱られることに、聖なる悦びを感じていたようにみえた。
私は、その時のことを思い浮かべて、福田氏に「賀川豊彦君になら出来るかも知れません。彼は米英では予言者的名声を持っていますからね」と答えた。福田氏も「そうそう賀川先生ならよいでしょう。しかし行ってくれるでしょうか」というようなことで、結局、私が賀川君を説きふせることになり、福田氏は外務省方面に、その実現方法を相談することに話がきまった。」 (「世界連邦の思想系譜」1968年小塩完治文中より)
こんな重大な国事に関わることを喫茶店で決めていたのか…と、複雑の思いもよぎるが、この密談後、時の外務大臣で対米強硬論者松岡洋右は、和平工作なんて用がないという意見でありながらも「賀川さんなら、よかろうじゃないか」と、日米平和工作を認めたようである。私はこの言葉がいつの時点でのものなのかが気になる。松岡は日ソ不可侵条約を締結して帰国(4/22)し、その際野村大使、ハル長官の「日米諒解案」を退けたとされるが、筧らが持ち込んだ時点では柔軟であったというのだろうか?このあたりは「暗い谷間の賀川豊彦」雨宮栄一著p.205~に詳しい。松岡は知られているように、1940(昭和15)年8月に、賀川が松沢教会の説教後に渋谷憲兵隊によって反戦思想の罪で検束され、巣鴨拘置所に入れられた際に法務省に釈放の取りなしをした人物である。日独伊枢軸国同盟の立役者で有名だが、彼もクリスチャンであった。賀川が連行されていった後、家族関係者の対策会議後、ハル夫人が直接松岡に要請したようだ。あまり賀川と松岡のつながりは明らかではないが、小塩の文によって、検束事件以外でのつながりがひとつ見えてきた。
  こうして一縷の望みが、民間人らの和平工作に託されたのである。4月に渡米、三百回に及ぶ各地での講演会で使節団は平和を訴えた。米国では、リバーサイド、ニューヨーク、アトランティックシティ、の三か所で大協議会を開催し、約30の小協議会を開催した。最初は時期ではないと、米国のアキスリング博士は反対であったが、「リバーサイド協議会はわれらの最高の期待をはるかに超えた。ロスアンジェルスの牧師200名は、賀川ミッション団員の歓迎会を、天長節に開催したが、日本天皇の誕生日に心からなる祝意を表明する決議をした」と電信してきた。
 しかし日本がナチ傀儡下のフランス・ヴィシー政府との相互安全保障条約に調印したため、フランス領インドシナへと日本軍が侵攻し(7/28)、このことによって平和工作は失敗した。ルーズベルトとの折衝をする道が、この時点で閉ざされたのである。これは全てが徒労に終わったことを意味した(シルジェン著「賀川豊彦」のp.269~)。この帰路、乗船した竜田丸の太平洋上で歌ったのが以下の歌である。

「悲しみを忘れて語る太平洋、平和のつなぎむねにひそめて
 1941.7.31 桑港 賀川豊彦 」(「銀色の泥濘」全集20)
 シルジェンによれば、前述のニューギニア割譲案は、実は賀川が平和のために、スタンレー・ジョーンズへ持ちかけたとのことである。ジョーンズはこれなら日本は領土を手に入れて、中国から撤退し、枢軸国同盟からも脱退するものと期待した。もちろん現在から見れば、勝手に他国の土地の分配を取引材料にするなど、植民地主義もはなはだしいやりとりである。しかし、当時は賀川やジョーンズのような人物でさえも、そういった認識だったのだろう。あるいは植民地主義には仮に反対だったとしても、全面衝突を避けるための最小限度の犠牲という政治的な判断で言ったのかもしれない。それでも被った国にとっては迷惑なことである。しかしながら結果としての歴史は、彼らの思惑とは別なものになっていった。
 ジョーンズは日本が中国にしたことには厳しかった。しかし日米開戦は避けたかった。その後3か月間日本人とニューギニア割譲案を議論し、やがてワシントンの日本外交官から要請され1941年12月3日に、ルーズベルトにこっそりと掛け合いに出掛ける。ホワイトハウスの秘密の入口(あるのか?)から入って話を持ちかけたようであるが、どこか近衛の有馬邸・極秘訪問と似てる。折衝内容は、昭和天皇に打電して太平洋上会談で戦争停止の要請をするように働きかけるよう要請するものであったのだが、果たして12月6日にこれは外電で日本に届いた。同じ時、賀川はジョーンズとルーズベルトに日本の総理大臣は交渉のため会議に準備を望んでいるとの電報を打った。しかし人々の祈りもむなしく、12月8日、日本軍はついにハワイ真珠湾への攻撃を行い、太平洋戦争の火ぶたが切られたのである…
 賀川ほか、多くの人々の必死の水面下の工作は徒労に終わった。今となっては歴史をもどすことはできない。しかし、平和ために尽力した賀川とその周囲の人々の姿から、今日の私たちが学ぶものがあるのではないだろうか。