賀川豊彦は若いころから平和を願っていました。
 彼の特徴は、ずっと先を見ていたということです。
 昭和12年、自分で出していた雑誌に「平静」という5行詩を書いています。
 私は急がない
 私は慌てない
 私は遅鈍を忌む
 私は予見を欲する

 たった5行の詩ですが、ここに「予見」という言葉がでてきます。
 もう一つ「空中征服」という小説を書いています。1922年(大正11年)のことです。
 テーマは何かというと「大阪の町の空気」なのです。いまでいえば公害です。
 煙突からのばい煙で昼でも暗いと書いています。
 その公害を征服したいといっているのです。
 これは当時の夕刊紙に連載していたもので、風刺と皮肉がたっぷりです。
 挿絵まで自分で書いています。

 ここでも未来を予見していました。
 80年前に地球の公害のことを語り、最後に地球人は地球を脱出して火星に行くといいと言いました。
 1937年には世界経済協同組合的合作を発表します。
 当時の国際連盟は各国の軍事バランスのことばかり話し合っていました。
 日米英の戦艦の数が5・5・3だといって論議していた時代に世界経済の在り方を論じていたのが賀川豊彦なのです。
 すこし説明しますと、「品目別経済会議」だとか「地帯経済会議」「一国対一国」「局地会議」だとかいう言葉が出てきます。いまのOPECだとかアジア開銀とかいう概念に当たると思います。EUもそうですし、ASEANも地帯会議や局地会議に当たるはずです。65年前にそういうことを考えていたのです。
戦争が終わって8月15日のポツダム宣言受け入れ後、最初の日曜日、この松沢教会で世界国家の必要性についてすでに語っていました。なぜ戦争が起きるのか、また戦争が起きないようにするにはどうすればいいのかといったことをすでに考えていたのです。
 若いときにスラムに入って救済を始めたときも、そうして人々が貧しくなるのかを考え、「防貧活動」を始めたのです。国際平和協会をつくったり、世界国家建設同盟もそのころつくりました。
 賀川豊彦の言ったことで実現したことと実現していないことがあります。EU、つまり前身はECですが、これは1950年のシューマンプランから始まりました。鉄と石炭を産するドイツ国境のルール地方を国際的管理に置こうという提案でした。賀川は当時、ヨーロッパにいてこの話を聞き、「これは世界国家のひとつのステップだ」とひらめきました。
 先ほど話しました、世界経済協同組合的合作はもともと、ジュネーブで講演したキリスト教兄弟愛による経済改革」が基礎になっています。この講演は3年内に23の言葉に翻訳され、英語圏だけでなく、スペイン、フランス、中国などでも広く読まれました。シューマンプランはそれから13年後に生まれたのです。このことについては1970年にECの議長だったイタリアのコロンボ外相が日本を訪問するに当たって日本の国会にあてたメッセージに書かれています。
日大経済学部の森静郎教授は「ECの経済は賀川の協同組合的考えを継承している」とはっきりと述べています。
 ECが賀川の予見が実現したもののひとつでしょう。公害もまさにその通りになりました。
 賀川の死後40年、世界連邦建設同盟から50年たちました。急がないけどぐずぐずしない。そして先を見通すのが大切なのです。(2003年11月 NPO法人アジア連邦21での講演から)