温家宝訪日の意味
証券経済倶楽部 2007年5月1日
■ 29年前の鄧小平氏の訪日フィーバー
二度にわたる失脚から不死鳥のように復活し、1978年10月に日本を訪問した。日中平和条約の批准書交換が主な目的だったが、中国の最優先課題は、文化大革命で疲弊した中国経済を立ち直らせることにあった。中国でまだテレビが人々にとって高嶺の花だった時代に、日本経済の発展ぶりを全土でテレビ放映し、日本が中国の経済発展の模範であることを視覚的に訴えた効果は絶大だった。
すでに新日鉄が全面支援した上海宝山製鉄所の建設は始まっており、翌年、北京を訪問した松下幸之助氏は北京松下カラーブラウン管工場の建設を約束した。当時としては西側による最初の対中大型投資だった。
世界が驚いたことは訪日の2カ月後、中国共産党が「経済の改革開放路線」を採択したことである。鄧小平氏は「先冨論」を掲げ、10年でGDPを4倍にすると公言し、誰もが実現不能と思われた社会主義経済の市場化を現実のものにした。
■温家宝が国会演説を大陸に中継した意味
冒頭、「昨年10月の安倍首相の訪中が氷を割る旅だったなら、今回の訪問は氷を溶かす旅となるよう願っている」との期待感を表明し、歴史認識問題では「日本政府と日本の指導者が侵略を公に認め、被害国に深い反省とおわびを表明したことは積極的に評価している」と述べた。
注目すべきはこの国会演説が中国全土で中継された点である。29年前の鄧小平氏の手法とまるで同じだった。国会演説で注目された発言は実は日本へのメッセージというより、中国人民へのメッセージではなかったかと考えた。これらのメッセージを中国国内の人々にしっかり伝えることが訪日の目的だったとすれば、たぶん温家宝首相の訪日は日中両国にとって大成功だったのだろうと思っている。
■ 日中共同プレス発表(共同声明はなかった)
・ 戦略的互恵関係の構築 首脳の継続的相互訪問、ハイレベル経済対話 艦隊の相互訪問
・ 羽田-上海の国際チャーター便運行
・ 日本の19都市から直行便で2万人規模の訪中団(3000人訪中)
・ 東アジア青少年大交流計画 5年間に中国高校生を大規模招待(留学生10万人)
■ 胡錦濤と胡耀邦
・ 同じ共産党青年団の第一書記
・ 3000人を北京に迎えた時の接遇責任者 天安門の最上等席
・ 胡耀邦はあまりに親日で長老派から批判された
・ 85年の靖国参拝が引き金
・ 86年5月には「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱、9月、保守派主導の精神文明決議が採択される。中国で民主化要求デモが先刻に波及。方励之。87年1月総書記辞任を強要された。「ブルジョア」と名指し。中国でレッテルを貼られるほど恐ろしいものはない。
■ 中国でデモ放置は政権の死活問題。文革もそこから起きた。
■ しかし鄧小平は後任に趙紫陽を充てた。経済改革を後退させるわけにはいかなかった。
■ 保守派、長老派のマグマがたまり続けた。89年6月4日の天安門事件で暴発
■ 鄧小平はまたもや側近を切らざるを得なかった。泣いて馬謖を斬ったのだ。
■ 鄧小平はそれでも長老派に総書記の座を譲るわけにはいかなかった。保守派だが改革を支持していた江沢民に白羽の矢があたった。学生を放置すれば内乱に発展しかねない。鄧小平からすると暫定政権のつもりだった。
■ 江沢民の長期政権化 誤算。
■ 党内に安定的支持基盤のない江沢民は体制固めに「誰もが反対できない」反日を使った。
■ 江沢民にとって援軍は欧米が中国市場に関心を持ち始めたことだった。それまでは日本しかいなかった。
■ 中国経済のテイクオフと香港返還。世界の目が中国にフォーカスされた。89年から03年まで14年間総書記。側近は曽慶紅。
■ 16期中全会(02年9月-) 政治局常務委員9人のうち、6人は曽慶紅をはじめ、呉邦国、賈慶林、黄菊、呉官正、李長春が江沢民系
■ 社会科学院の日本研究所副所長 金熙徳(きんきとく)がネット青年と対談 これがおもしろい。
■ 31の省・直轄市のうち14が決まった。6月までに全取っ替え。9月の党中央人事で24政治局員の半数が変わる見通し。