桜のうんちく (5) 旅を枕にした西行
願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ
百人一首では「嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな」の歌で知られ、坊主めくりでおなじみの西行法師である。
まだ桜の開花を待っている時期に吉野のことを書くのははばかれる。しかし、桜の名所として吉野ほど著名なところはない。全山が桜におおわれ、すそ野から千本桜まで時間を追って咲き乱れるのである。
西行はその吉野に3年間、庵を結んでいた時にこの歌をうたったとされる。桜をこよなく愛した歌人の一人で、桜花爛漫の時期に死にたいと願った。この歌は 60歳ごろの作とされるが、不思議なことに73歳の如月(2月)望月(15日)の翌日、最期の隠遁地、南河内の弘川寺でなくなった。
史上最も桜を愛した歌人のひとりでもあった。出家する前の俗名は佐藤 義清(さとう・のりきよ)。鳥羽院の北面の武士として仕えていたが、ならぬ恋がゆえに出家、和歌を携えて全国を行脚した。たぶん旅を文学に高めた最初の日本人だったのだろうと思う。
紀貫之の『土佐日記』があるといわれれば、そうだが貫之は土佐国への赴任の途上を日記にしたためただけ。西行の歩いた距離とは桁が違う。在原業平の『伊 勢日記』は自身が本当に吾妻まで旅したか疑わしいのだ。連歌の宗祇や俳句の芭蕉も旅を生活にした点で、西行の生き方をまねたのだろう。
我輩も旅を枕に風雅に生きたいが、西行の真似はできそうにない。(平成の花咲爺)