古への奈良の都の八重桜 きょう九重に匂ほえるかな

 歌の意味の解説は不要であろう。藤原道長が権勢を誇った時代。一条天皇の元へ奈良から八重桜が届いた。そこに居合わせた伊勢大輔に「その花を題にて歌よめ」と請われて詠み、「万人感動、宮中鼓動」(袋草子)したと伝えられている。

 平安京の遷都(794年)からすでに200年を経ているから「古へ」なのだが、旧都への郷愁がまだ人々の間にあったのだろう。当時は「奈良の八重桜」と いえば興福寺の東円堂の前の桜と相場が決まっていた。見たことがなくともあのうわさに聞いた「八重桜」のことかと宮廷人は「よき古へ」への思いを一にした に違いない。

 この話とは別に、「沙石集」という本に興味深い話が載っているそうだ。『櫻史』(山田孝雄)によれば、興福寺の東円堂の八重桜がきれいだと聞いたある后 が「掘って持って来い」と興福寺の別当に命じた。それを見つけた「大衆の某』が「后の命令だからといってこれほどの名木を献上してよいものか。もののあわ れを解さないことおびただしい」と別当に食って掛かり、人々を集めて阻止させた。命を張って名木の移植に反対した人々が奈良にいることを知ったこの后はま た「奈良にはなかなか風雅を愛する人々がいる」といって感嘆したのだそうだ。

 伊勢大輔は藤原彰子(上東門院)に仕えた。大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の子で、父輔親が伊勢神宮の祭主・神祇大輔(じんぎたいふ)だったことからこの名で呼ばれるのだそうだ。(平成の花咲爺)