執筆者:藤田 圭子【早稲田大学政治経済学部4年】

自分の故郷が寂れていくのを見るのは、とても辛い。自分に何ができるか見つけられないまま、何かないだろうかと農山漁村を旅するようになった。そういう旅で、去年の師走は高知県安芸市にいた。安芸は高知県東部にある人口2万人ほどの市である。柚子と米ナスの産地。

この旅行は、国土交通省が企画したボランティアホリデーのモニターとして、航空券と宿代が支給されたものだった。6泊7日に渡って安芸市内に滞在することになったわけだが、その旅程は全て安芸市役所が組んでくれていた。

この旅の中で特に印象に残っている集落が二つある。一つは市の西を流れる安芸川、畑山川沿いに北へ車で30分ほど走った畑山というところ。もう一つは市の東を流れる伊尾木川沿いに北へ車で20分ほど走った入河内というところ。どちらも川沿いの曲がりくねった道を行かなければならない。

畑山には市営のバスで行ったのだが、車窓から見える山の緑と川のコントラストのキレイな様に心を奪われてしまった。田舎育ちとは言え、海と山は全く違う。こんな世界もあるんだとドキドキしてしまった。そんな自然への感動を味わいつつも、まだ着かないのだろうかと不安にもなった。外の世界の美しさと1軒の家も見ない不安が胸の中で交錯していた。しかし、徐々に空が広がり、水田が現れ、目的の畑山に到着した。

ここ畑山は30年で人口が10分の1に減ったところ。限界集落と言われるところ。一番若い人は40代の小松靖一さん。通称、靖ちゃん。靖ちゃんのその下は、靖ちゃんの弟以外にもういない。70人の畑山にとって、一番頼りにされている人だ。会話の中で、「自分が畑山を背負っている」という言葉をよく耳にした。私にとって、「故郷・遊子を背負う」という言葉はまだ言えるような状況にはない。だから、靖ちゃんをどこか羨ましく思うところもあったが、それだけの苦労が目に見えるようなところもあった。

靖ちゃんは、畑山で土佐ジローという鶏を育てている。これは畑山にもともとあった産業ではない。大工をしていた靖ちゃんが、どんどん人のいなくなってしまう畑山で、人が生きていける道を模索して辿りついた道だ。最初はうまくいかなかったらしいが、試行錯誤の末、土佐ジローブランドとして確立されている。そして、今では海外からも注文があるほどだ。

畑山での夜、私も食べさせてもらったが、その味は今までに食べたことのない美味だった。昼間見た鶏が目の前にあるという生き物の命を貰って生きているという感じ。我が家で感じる魚への感謝とは、何か違う感謝の気持ちを感じた。そして、そういう鶏に拘って鶏を可愛がって育てている靖ちゃんたちに、言葉ではないけれども沢山教えてもらったように思う。

土佐ジローがブランドとして確立したが、靖ちゃんの悩みはまだまだ尽きないように感じた。アドバイスなり意見を言う人は幾らでもいるが、それを畑山で実行に移すだけの人がいないということ。地域全体のこともあるが、養鶏に従事する従業員の人は畑山の人だけでなく市街地に住む人もいる。働き場所が仮に出来ても集落を形成するのは別問題なのだと教えられた。限界集落の寂しさをここにも見たように思う。故郷にこだわって生きることがどういうことか・・・靖ちゃんの背中は教えてくれているように思う。

続いて、入河内のことを書きたいと思う。こちらには、まだ小学生児童もいる。しかし、特認校制度を活用して、他地域からもこの小学校に通っている生徒を含めての学校存続ではあった。

ここでは、有澤家でお世話になった。農家民宿を始めようと思案している家で、50代のお母さんと80代のおばぁちゃん2人の家だった。お母さんもおばぁちゃんもとても良い人で、また家族のように付き合える人が増えたと喜んでいる。お母さんもそうだが、特におばぁちゃんの肌つやはとてもスベスベで、笑顔も素敵だった。

“何でそんなにキレイなん?”と聞くと、“ユノスのおかげ”と言っていた。柚子のことだ。80歳を越したおばぁちゃんだが、自転車に跨るようにバイクに乗り、山の畑を行き来していた。入河内で作られる“てまいらず”という柚子巣の瓶には、このおばぁちゃんの写真が使われているのも納得してしまう。

そんな元気なおばぁちゃんだが、お母さんが始めようとする農家民宿には反対していた。私が入河内を訪れた時も、“ようこんな田舎へ”と大変恐縮した様子だった。でも、私は本当に楽しかったし、良いところへ来たと思っていた。人込みの中を観光するよりも、こうした山などで我が家のように休めるところがあることは本当に幸せだと思った。そんな気持ちをおばぁちゃんと話たり、帰ってから手紙に書いたりしていた。

入河内から帰って半年が経った先日、嬉しい知らせが届いた。農家民宿を本格的に始めたのだという。最初は嫌がっていたおばぁちゃんが、今では積極的に外にアピールしているのだという。お母さんが“入河内で何かやらないと”という声を聞いて、私も頑張ろうという気持ちになった。

今、農山漁村は廃村になりかけているところが数え切れないほどある。廃村になった村はあっという間に家が崩れ、その家は裏の藪に飲まれていく。そんな姿を故郷の姿に重ねて想像しなくもない。人口規模で見れば、我が故郷はまだ良い方かも知れない。でも、それに甘えていては、あっという間に無くなってしまうのかも知れない。

公共事業などだけへの依存ではなく、自分たちの手で何か新しい産業を創る必要性に迫られているのではないだろうか。しかし、それを担うべく人材や、若い後継者は農山漁村から姿を消しているのも事実である。農山漁村がなくなっても問題ないとする論調もあるが、それは違うと思う。一つの村が無くなっても大きな問題ではないが、廃村になろうとしている村は数多い。農山漁村が持つものを経済的な指標とは違うもので、再評価する必要があると思う。どの村にどの方法が最善なのかということは言えないけれど、村の自立を考えていきたいと思う。
藤田さんにメールは E-mail:yusukko@cf7.so-net.ne.jp