執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

きょうは七夕。珍しく浴衣姿の子どもたちが多く町に出ている。笹流しがこの町では残っているのだ。

先週、亀山市の能褒野という土地に行った。「のぼの」と読む。

そこにある能褒野神社には、明治12年に明治政府が指定した「景行天皇皇子日本武尊の墓」という陵墓があり、日本書紀では日本武尊(倭建尊)の終焉の地とされる。

日本武尊は伊吹の悪神を成敗した時、傷つきこの地に果てたのだが、この能褒野でいい歌を残している。

大和は国のまほろば、たたなずく青垣山、隠れる大和しうるわし

30年以上も前、大学入試に失敗して浪人した時、直木孝次郎という人の書いた岩波新書『奈良』を携えて最初の古都の旅をした。その時、初めて意味もわからず覚えた歌だった。

「まほろば」とか「たたなずく」という音感にじーんとくるものがあった。なにやら日本を感じてしまったのだ。

伊勢に住むといままで神話や歴史の中でしか存在しなかった人物が生身の人間として浮かび上がってくる。これは不思議な現象である。

日本武尊伝説について、さらに書いてみたい。

日本武尊は景行天皇の皇太子だった。世が世ならば戦場に身を置く必要にない地位にあった。にもかかわらず、父天皇は日本武尊を多くの戦場に向かわせた。最初は九州の熊襲征伐だった。

「タケル」という名には猛々しいイメージがある。皇室にふさわしくないその名は熊襲の首領の名からもらったという。それまでは小碓命(おうすのみこと)と呼ばれていた。兄は大碓命といったから古代の命名は分かりやすい。物語では景行天皇の皇太子は兄ではなく、弟の小碓命だった。「日本」という文字をあてがった皇子に「タケル」という雅でない呼び名がつけられた。そこらの古代人の思考がおもしろい。

日本武尊は次いで東国征伐を命じられ、伊勢の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を訪ねる。伯母の倭姫命は伊勢神宮を現在の地に遷宮した人物として知られる。皇室の先祖である天照大神の安住の地を求めて飛鳥を旅立ち、伊賀、近江、三河などを経て伊勢の渡会(わたらい)の地にたどりついた。なぜ伊勢の地でなければならなかったか。古代史の疑問は少なくないが、日本武尊が東国討伐に旅立った時は、渡会で斎宮として天照大神をお守りする役割と担っていた。

日本武尊は伯母に自らの身の上を嘆いた。「父上は私に死ねということなのでしょうか」とも悲しんだ。旅立ちにあたって倭姫命は天照大神の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と火打ち石の入った袋を与えた。天叢雲剣は須佐之男命が出雲国で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた太刀である。須佐之男命はこの剣を天照大神に捧げ、八咫鏡とともに天照大神の神体となっていた。

日本武尊は天叢雲剣と袋をもって東征に向かう。駿河でこの神剣によって野火の難を払った。そのため草薙剣(くさなぎのつるぎ)と命名された。東の国々を討伐の後、尾張国造の娘の美夜受媛(ニヤズヒメ=宮簀媛)と結婚。美夜受媛の元に剣を預けたまま伊吹山の悪神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまった。なぜ草薙剣を置いて出陣したのかこれもなぞである。美夜受媛は剣を祀るために熱田神宮を建てたのだという。

明治になるまで、「神宮」を名乗れたのは伊勢のほか、この熱田と鹿島、香取の5つだけだった。尾張の熱田神宮が古来、「神宮」を名乗ったのは草薙剣の存在に由来することは間違いない。大和朝廷にとって伊勢と尾張は国家統一に欠かせない重要な存在だったことが分かる。

「大和は国のまほろば」とうたった日本武尊は戦陣の中で人生を終え、白鳥となって西に飛んでいった。物語はみごとに日本武尊を悲劇のヒーローに仕立て上げている。

神話の中であっても日本の国造りのロマンをもう少し知っていていい。津々浦々に語り継がれた物語があり、日本の物語を多く知ることは旅をより豊かにするよすがとなる。