執筆者:美濃口 坦【ドイツ在住ジャーナリスト】

最近日本でも出版されたローバート・ケーガン・「ネオコンの論理-アメリカ新保守主義の世界戦略」はヨーロッパで話題になった本である。ケーガンは、9.11以来すっかり有名になった「ネオコン」(新保守主義)の代表的知識人で、その拠点シンクタンクの一つ「アメリカの新世紀・プロジェクト(PNAC)」の設立者の一人である。

「私たちは、米国人とヨーロッパ人が同一の世界観をもち、同じ世界に住んでいるかのようにふるまうべきではない」という冒頭の文章からわかるように、大西洋をはさむ両大陸で、「同じ世界」(=西欧)の住人であると思い込んできた人々に対する挑発の本である。

「ホッブズ的現実」から眼をそむける欧州

著者のケーガンは米国と欧州の相違をどのように説明しているのだろうか。ここで、キーワードとなるのは「ホッブズ的現実」である。これは「万人が万人に対する戦う」と呼ばれる状態で、17世紀の英国の哲学者ホッブズが「リヴァイアサン」のなかで国家の必要性を説明するためにもち出した考えである。

人間は欲望と名誉心と自己生存本能をもつ。ほったらかしの自然状態になると、猜疑心とエゴイズムから「万人が万人に対する戦い」になる。誰もが鉄砲や刃物をふりまわす状態は望ましくない。そのために、この戦う「権利」といういうべきものを誰か(例えば君主)におあずけしたしたほうがよい。このために国家的秩序が必要になった。簡単にいうと、こんなことで、日本人なら荀子の「性悪説」と太閤さんの「刀狩り」思い出すかもしれない。

著者のケーガンによると、国際社会を考える上で米国は苛酷な「ホッブズ的現実」を絶えず意識し、政治的秩序の根底にある武力という要因を重視する。米国が問題の解決にあたり軍事力に訴えるのもそのためで、こうして米国は問題の迅速かつ徹底的な解決をめざす。

欧州はこれと反対で、国際法や条約順守、国連重視とかを言い出して埒があかない。これは、ヨーロッパが統合をすすめるうちに「ホッブズ的現実」と権力政治を忘れ、「カント的永遠平和」が支配する世界に暮らしていると錯覚するようになったからだ。この本の英語の原題「楽園と権力」の「楽園」は欧州が苛酷な現実から眼をそむけることをさしているので、著者はヨーロッパ人がノンキ者の「極楽とんぼ」といいたいのである。

欧州がイラクを脅威と感じなかったことも、また軍備増強に努力もしないで国民の福祉ばかりにかまけているのも、軍事力弱小の「極楽とんぼ」のメガネで世の中を見ているからだ。反対に米国は軍事力の向上に努め、「ホッブズ的無政府状態の世界で権力を行使し」、世界秩序を支えている。

米国がこうして秩序を維持するからこそ、欧州は「カント的永遠平和」を享受できる。それなのに、ヨーロッパは、「極楽とんぼ」らしいことに、それに気がつかない。この状況が続くと、「米国は欧州の批判をまじめにとりあげたり尊重したりしなくなる。米がEUの発言に東南アジア諸国連合(ASEAN)やアンデス共同体と同じ程度の注意しかを払わない日が、まだそうなっていないとすれば、必ずやって来るだろう」と著者のケーガンはすごむ。ネオコンの論理をひとことでいえば、「力のない奴はつべこべいうな」ということにならないか。

シュミット元独首相の反応

ヨーロッパでこのような話を聞いてシュンとする人もいないことはないが、でも大多数の人はあきれる。ヘルムート・シュミット元独首相もその一人で、彼は、「(米外交の伝統である)国際協調主義も、また孤立主義も消えることはないにしても」、このような米国の一極主義が今後米外交を支配すると予想し、欧州にそれにふさわしい外交政策をとるようにすすめる。また彼は、十八世紀の保守的知識人・エドマンド・バークの次のコトバを挙げて逆に米国を批判する。

「ある国があまりにも極端に一方的になり、また他国の当然な願望と心配をまったく無視することほど、その当事国にとって不幸な結果をもたらすことはない」

ちなみに、首相時代のシュミットさんは1970年代末、「鉄のカーテン」の向こう側に配備されたソ連の中距離ミサイルを軍事的脅威とみなし、米国にも中距離ミサイルの配備を要求した。但しその前に米ソが中距離ミサイルの軍縮交渉をして、それが失敗したときに米国が配備を開始するという条件である。彼はこの「NATO二重決定」の産みの親であった。

ということは、当時シュミットさんのほうが、ソ連の軍事力に鈍感な「極楽とんぼ」であった米国に圧力をかけたことになる。その結果、彼は与党の社民党内部で孤立し、平和主義者から眼の敵にされた。この軍事力を無視しない政治家が「(ネオコンの論理ほど)当事国にとって不幸な結果をもたらすことはない」と憂慮する。またパックス・アメリカーナに異存のない政治家の多くも、現在の米国に何か不吉なものを感じる。なぜ多くの人々がこう思うのだろうか。

力とか、武力と軍事力とかいったことは、国内でも国際社会でも重要な要因である。この点を肯定しても、この力がどのようにはたらくかというと点で、「ネオコンの論理」の著者は単純な力学的モデルを複雑な国際関係にあてはめようとしていないか。

また軍事力が経済とか文化といった他の重要な要因とどのように絡み合って、またどのようなプロセスをへて支配・被支配の関係がうまれたり、政治的秩序が成立するのかといった厄介な問題について、「世界秩序」とか「影響力を行使する」とかいったセンテンスを口にする著者は本当に頭を悩ましたことがあるのだろうか。この点に疑問を抱く読者がヨーロッパでは多かったように思われる。

「ホッブズ的現実」をつくる米国

まず力あるいは軍事力がどのようにはたらくか、どんな条件下で効果を発揮するかという、比較的答えやすい問題について考える。120頁あまりに及ぶ本の中で、著者がパワーゲームの参加者としてが漠然と想定としているのは国家である。確かに国家対国家の戦争になれば、(著者が自慢する)米国式ハイテク軍事力が決定的な要因になり、どこの国も米国のお相手など絶対できない。

でも著者は「世界秩序」を論じる以上、地球上のいろいろな地域に眼を配る必要があるのではないのだろうか。ちなみに、昨年アフリカ、南米、アジアに29の戦争があった。小さな紛争になると18箇所で発生している。その大多数は国家同士の戦争でなく内乱である。米国の核やハイテックの軍事力はこのような内乱に対して強みを発揮しないのではないのか。

次に、「極楽とんぼ」扱いにされたヨーロッパ人をはじめ地球上の多くの人々が9.11以来心配するのは「ならず者国家」より国家の体裁をとらない「見えない敵」・テロリズムとの戦争である。この「見えない敵」に対して、米国の核やハイテクに基づく軍事力またミサイル防衛が効果を発揮するかどうか疑問である。

ところが今までの米国がしたことは国家相手の戦争を展開することであった。その理由は、この国がこのタイプの戦争おいて二十世紀に大成功を納めて一番得意とするからである。この事情は、昔成功を博した名外科医が何かのショックから判断能力を失い、どんな病人に対しても手術ばかりしたがるのと似ている。米国がすることは、手術が成功しても患者は死んでしまうようなもので、その成果は相手国家が消滅し、国家に組織されなくなった無数の人々が残されることであった。彼らの多くは米国に感謝するより反感を抱いているとされる。これは、多数の人が心配するように、潜在的テロリストをうみだすことにならないか。

テロリズムの「見えない敵」は万人が散在的な敵になることで、これは、ホッブズの「万人が万人に対する戦う」状態に一歩近づくことになる。こうして「ホッブズ的現実」がうまれることは、米国が「ホッブズ的無政府状態の世界で権力を行使して」は秩序をつくると思い込んでいる「ネオコンの論理」の著者にとってはなはだ皮肉な結果である。

途中でやめる戦争

クラウゼヴィッツの「戦争論」のなかにあまりに平凡でろくろく引用されない戦争の定義がある。それは「戦争は、武力を行使して相手を屈服させて抵抗力を奪い、自分の意志通りに従がわせる」である。私たちは米国がこのような戦争をしている思って、今回のイラク戦争について米国の本当の「意志」についてマジメに推側し、米国のほうもいろいろもっともらしい発言をした。でも米国の戦争がそんな合理性に基づいたマジメな戦争でなかったらどうなるのであろうか。

アフガン戦争でも色々な戦争目標が掲げられ、米国の真意が取り沙汰された。例えばパイプライン敷設の経済的野心もその一つである。ところが、「屈服させて抵抗力を奪い自分の意志通りに従がわせる」つもりの「相手」はいなくなり、具体的目標は到達されなかった。現状はタリバン登場以前の「戦国時代」に戻り、国際治安支援部隊がカブールをパトロールしているだけで、参加国兵士が頻繁に死ぬだけである。

イラク戦争でも、米国はイラク民主化の意図を表明し、大量破壊兵器の脅威を訴え、世界中は米に油田確保の戦争動機を推定した。昔ならマジメにこれらの目標を達成するために、何十万人もの米兵士の長期駐留が必要になると発言した軍事史家が戦争前にいた。米軍全体の兵員総数を考えると、米国にそんな覚悟はないように思われる。

米国の戦争は普通の戦争とかなり異なってしまっているのでははないのか。これが私の根本的疑問点である。その変化を見ようとしないで、私たちは昔と同じような議論を続ける。私のこの奇妙な疑問を理解してもらうために、クラウゼヴィッツの戦争の定義に戻る。米国は「屈服させて」までのところで止めて、マジメに「抵抗力を奪い自分の意志通りに従がわせる」ところまで行かない。(だいいち、相手が消えていなくなったらそれも不可能である。)つまり米国の戦争とは途中でやめてしまう戦争ではないのか。

昔は戦争には理由があってしたもので、だからこそ「戦争は別の手段による政治の延長にすぎない」というクラウゼヴィッツの有名なほうの戦争定義があった。「屈服させる」だけで、その後政治目標をマジメに追求しない戦争は非政治的な戦争で、どこかで戦争のための戦争なってしまったことにならないか。平和主義者でもない欧州の政治家までもが、米現政権に不安と苛立ちをおぼえるのもこのような事情からである。

中断戦争は「戦争ショー」

途中でやめるこの中断戦争は「屈服させる」だけである以上、勝ち負けで終わるスポーツ、見世物に近くなる。まさにこの点にあるのではないのか、世界中で多くの人々が米国の戦争について奇妙な印象をもつのは。私の知人に米国の政治家が「映画製作者がロケ先をさがすように次の戦争相手を語る」と怒っている人がいる。この米国の戦争の見世物的性格こそ、今まで多くの人々に指摘された点である。

多くの先進国で、テレビの画面上の政治が本当の政治の代わりなる傾向がよく指摘される。今回のエビアン・サミットでドイツのテレビの最大関心事はブッシュ大統領とシュレーダー独首相が握手するかどうかであった。握手という象徴的政治行為は「米・独関係改善の第一歩」というメッセージを伝える特別な現実となる。この現実は象徴性が高くフィクションであり、同時に事実(ファクト)でもあるので、「ファクション」と呼ばれることがある。メディアの現実、「ファクション」を重要と思っているうちに、政治そのものが政治家の頭の中で変化しショーに近づく。こうして昔は政治行為であった戦争も中断戦争という「戦争ショー」になってしまったのではないのか。

このショーの主演者は米国の政治家と兵士である。共演を強制されるのは「ならず者国家」で、そこの兵士も国民もこのショーを戦争らしくするためのエキストラにすぎない。(彼らが死んだふりをして済ますことができないのが本当に残念である。)

米国は自国の出演兵士ががあまりに多数死ぬと、本来自国民向けのショーが現実になるので、クラスター爆弾の使用もいとわない。メディアが報道しなくなったら、これが「戦争ショー」の終わりで、地面に落ちた爆弾が地雷のようになる現実はショーの中の特別な現実、「ファクション」でない以上、存在しないも同然である。

資源を確保する一九世紀の「植民地戦争」も、また政治秩序を確立するための二十世紀の「イデオロギー戦争」も、理由がある以上本当の戦争であり、れっきとした政治的行為であった。「ネオコン」とは、このような過去の本当の戦争と関連づけて「戦争ショー」を戦争らしくみせようとしているをしている人々にすぎないのではないのだろうか。ケーガンの本を読みながら、私にはそう思えてしかたがなかった。

美濃口さんにメールは E-mail:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de