執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

昨年8月、東京都と神奈川県の境を流れる多摩川にアゴヒゲアザラシが現れてからタマちゃんブームが1年も続いている。

今年2月には東京都で最も水質汚濁が激しいとされた立会川と神田川などにボラの大群が出現、人々を驚かせた。一昔前まで、ボラが遡上するのは当たり前のことで、ニュースなどにはならなかった。ニュースになるのは「普通」のことではなくなって久しいからである。

東京周辺の河川にアザラシやボラが生息できるということはいつのまにか、河川がきれいになっている証拠に違いない。その確証はまだつかみ切れていないが、河川の汚濁防止で思い出したのが、1979年の「琵琶湖条例」(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)の制定だ。

記者になって2年目、新人記者として大津に赴任して、全国ニュースは皆無だったからわくわくした。

日本最大の湖である琵琶湖は関西の水がめといわれ、古くから京都、大阪、神戸の水道水の水源となってきた。1977年5月、その琵琶湖南部の湖面が突然、真っ赤な帯状の物質に覆われ、生臭いにおいが周辺に漂った。滋賀県はただちにそれを赤潮と断定した。赤潮の帯は日を追って増え、そのぶきみな姿は人々に衝撃を与えた。

赤潮は、水中のリンや窒素などの栄養基の濃度が高まり、植物プランクトンが増殖する富栄養化によって起こる現象。それまでは瀬戸内海など内海で多発し、養殖のハマチの大量死を誘引するなどしていたが、住民への直接的影響はなく局地的現象とされていた。

琵琶湖の赤潮に周辺住民が危機感を持ったのは、水質が比較的きれいとされていた水道の水源で起きた事件だったからである。

滋賀県の調査で、原因は仮定の雑排水や畜産排水が主な原因とされ、中でも家庭で使われる合成洗剤に含まれるリン酸基への関心が高まった。大津市を中心とした滋賀県南部の住民はただちに合成洗剤の使用をやめて、天然油脂を主原料とした粉石けんの利用をすすめる運動を始め、滋賀県に対しても合成洗剤の使用規制を強く求めた。

合成洗剤はいまでも洗濯や食器洗い用として、主婦の毎日の生活にとっては不可欠の存在である。一方の粉石けんは完全に忘れ去られていた存在だった。粉石けんは使用時に水に溶けにくいうえ、汚れも落ちにくい代物で、そもそも店舗でもほとんど販売していなかった。

それでも「水源の汚染」という緊急時に主婦たちは立ち上がり、粉石けん普及運動に力を入れた。商品が足りない地区では家庭用廃油から粉石けんをつくる教室がいくつも立ち上がり、「自給自足」への努力もなされた。

そんな住民の努力をにらみながら、滋賀県は当時としては異例のリンを含む合成洗剤追放策を策定していた。県内で合成洗剤の販売を禁止する「琵琶湖条例」だ。単一の自治体が商品の販売を禁止するような条例は世界のどこにもない。まして相手は花王やライオンといった大手企業である。

当時の常識では、合成洗剤に含まれるリン酸基こそが洗浄力を高める主成分で、リンを含む合成洗剤の販売を禁止するということは合成洗剤の追放にほかならなかった。「琵琶湖条例」制定の過程はたちどころに全国ニュースとなり、制定の是非をめぐる議論は全国に広がった。

毎日、琵琶湖の湖面が赤く染まり、生臭いにおいが立ちこめる住民の焦燥感は日ごとに募るが、そうした問題意識はなかなか中央政界には伝わらない。極端にいえば、合成洗剤の使用をめぐって、オールジャパン対滋賀県の対立構造も生まれた。当時の滋賀県武村正義知事の先見性はそうした中央の圧力に屈しなかったことだろう。武村知事は条例制定を敢行し、滋賀県の住民は水がめ保全のため、あえて溶けにくい粉石けんを使う選択をしたのだった。

「琵琶湖条例」は前文で「水は大気、土などとともに人間生存の基盤である」とうたい「幾多の困難を克服して、この水と人間の新しい共存関係を確立していかなければならない」と高らかに宣言した。

技術の進歩はすばらしいもので、この条例の制定と前後して、合成洗剤の助剤に使われていたリン酸塩はゼオライトに置き換えられ、現在では日本の洗濯用の合成洗剤はほぼ100%無リン化が実現した。

もちろん合成洗剤だけが富栄養化や水質の汚染の原因ではないのだが、利便性を犠牲にした滋賀県の合成洗剤追放運動は、国内だけでなく、全世界の水質保全や環境問題に大きな問題を投げかけたことは確かだろう。

琵琶湖条例制定から5年後の1984年8月、大津市を会場に「世界湖沼環境会議」が開かれた。「自然と人間の共存のみちを探る」をテーマにしたこの会議は国連環境計画(UNEP)や経済開発協力機構(OECD)など4つの国際機関をはじめ、28カ国からの71人を含め内外2400人が参加する当時としては最大級の国際会議となった。「琵琶湖宣言」を採択し、水質だけでなく水辺の景観など湖沼の保全が地球にとって不可欠なものであるというアピールを世界に発信した。

先進7カ国首脳会議(サミット)で、「環境問題への取り組みが持続的経済成長に不可欠である」という文言がサミット宣言に盛り込まれるようになったのは「琵琶湖条例」から10年、「琵琶湖宣言」から5年の1989年のことである。環境問題はいまや世界的課題であるが、24年も前にすでに水の問題に正面から取り組んでいた滋賀県という自治体を持っていたことを、われわれは少しは誇りにしていいと思う。