執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

きょうは『萬晩報』の発刊記念日である。丸2年よく続いていると我ながら感心している。世の中が順風満帆だったら、続くどころか、そもそもこんなコラムを書き始めたはずもない。逆説的に言えば、世の中がおかしいから萬晩報が生まれ、発行が3年目に入ったのである。

萬晩報は当初、20人の読者から始まった。親しい友だちに一方的に送りつけたメディアだった。その20人はいまでも読者でいてくれている。きょうその数が16500人を超えた。ちょっとしたものだという自慢をしてもいいと思う。

記念すべきこの日は尊敬する新聞人である桐生悠々について書きたい。

●誰も非難しなかった陸軍の大演習

桐生悠々は「関東防空大演習を嗤う」というコラムを書いて信濃毎日新聞の主筆の座を追われた。1934年のことである。時代は満州事変を経て日本が国際連盟を脱退するまで追い込まれていた。「関東に敵機をを迎え撃つということは敗北そのものである」と当たり前のことを書いただけで陸軍の憲兵ににらまれた。

戦後になって抵抗の新聞人としてその反骨精神を評価された。当時マスコミがこぞって、そんな防空演習のばかばかしさを書きたてれば時代は変わったかもしれない。だが、朝日新聞も毎日新聞もばかばかしいと書かなかった。桐生悠々だけが「嗤う」と書いた。

その後、桐生悠々は媒体(メディア)を失った。名古屋で「他山の石」という個人雑誌を発行して糊口をしのぐことになる。1934年6月から第二次大戦直前の41年8月まで、書くべきメディアを失っても書かなければならないことは書こうという姿勢を貫いた。

発行は月に2回、全176冊。はじめは「名古屋読書会報告」という名で発行され、翌年から「他山の石」に改名した。1冊のボリュームは平均32ページほどのパンフレットだった。ほぼ月に2回、300から500の会員に毎回郵送した。当時インターネットなどという媒体はない。

●悠々が伝えた欧米知識人の関心事

当時、欧米で注目を浴びていた洋書を取り寄せてその要約を掲載した。足掛け8年間で100冊以上の洋書を紹介した。海の向こうでいま欧米の知識人たちが何を考えているか、日本やアジアをどのように見ているか、桐生悠々が「伝えざるをえない」と考えたものばかりで、本来は当時の日本政府や軍部の中枢が読むべき内容だった。

還暦を迎えた桐生悠々は自ら要約し、自ら割付をして、印刷屋に持ち込み、妻の手も煩わして袋詰めして郵送した。検閲制度があるなか、8年間、しかもひとりで書き発信し続けたのは偉業である。

桐生悠々は1910年に山路愛山の後任者として、信濃毎日新聞の主筆として迎えられ新聞人としての素養を開花させる。その後、新名古屋に移り、再び、信濃毎日に戻り、13年の「戦う論説委員時代」を過ごして、1933年8月11日に書いた「関東防空大演習を嗤う」を最後に言論の場を失うことになる。

戦争に向かって報道官制を強めていた時代の中で、食うために始めたこの「他山の石」も度々、発行禁止となり、削除を求められた。前途多難のスタートだった。

残念ながら「他山の石」を直接は読んでいない。井出孫六氏が著した『抵抗の新聞人 桐生悠々』(岩波新書)の記述をたどると次のような書名を並べることができる。

ハロルド・ラスキ
『国家の理論及び実際』
J・A・スペンサー
『イデオローグの時代』

『平和の経済基礎』
J・P・ワンバッセ
『組合と労働運動の関係』

オーエン・ラチモア
『衝突の揺籃・満州』

『組合的民主主義』

W・マクドゥーガル
『渾沌たる世界』
F・A・リドレー
『民主政治と独裁政治』

G・スタイン
『日本製の脅威』
T・W・マルサー
『資本主義に代わるもの』

『関東軍と満州』

『戦時の英国消費組合』

W・H・チェンバレン
『極東の巨人・日本』
H・G・ウェルズ
『世界の新秩序』

『米国人の観た日本人』
A・クローズ
『外人の観た荒木大将と林大将』

A・プラマー
『植民地分配論』
E・J・ヤング
『強くして弱き日本』

G・ビーンストック
『支那と列強』
P・ティルネー
『誰が此戦争に勝つか』

M・プランク
『自然の因果性』
ポール・ヴァレリー
『狂気に対する理性の戦い』

R・ディヴィス
『1960年の日常生活』
ノーマン・エンゼル
『戦争廃止の教育的及び心理的要素』

(赤字の要約は発行禁止や削除を命じられた)

新紀末を迎えて、やはり日本と世界の関係を考えざるをえない時代がやってきた。

●求められる新しいメディアの登場

現在、われわれが住む日本に国は露骨な言論統制はない。公序良俗に反しないかぎり、言論の自由が許されている。だが戦後の日本には新しい新聞が生まれていない。「夕刊フジ」「日刊ゲンダイ」が一応の成功をおさめたが、娯楽紙に近い。一時期、成功したかにみえたのは愛媛県の「日刊新愛媛」ぐらいのものだ。

「日刊新愛媛」は、来島ドックの故坪内氏が20年ほど前に宇和島市の小さな地方紙を買収して県紙として発刊したもので、「愛媛新聞」に対抗しようとして敗れた。共同通信の記事を極力多く使い、記者に初めて和文タイプのようなワープロを打たせて省力化を図った。カラー印刷を多様した点でも斬新だったが、一方で「坪内新聞」との批判もあった。

メディアとして多くの読者を得て成功するには資金が要る。新聞だと印刷機が必要で、販売網も欠かせない。テレビ・ラジオは放送施設に莫大な金がかかるし、運営のために広告取りも不可欠となる。新しいマスメディアが生まれにくい背景にはそんな事情がある。

だが本当にそうであろうか。戦前には地方にも複数の新聞が存在し、お互いに紙面を競っていた。場合によっては憲政会と政友会という政党に分かれて世論形成も行われていた。それが戦争目的にで1県1紙を強制され、そのまま県紙として生き残った歴史がある。同盟通信は戦後ただちに財閥解体によって共同通信と時事通信、電通に分割されたが、分割の威令は地方のメディアにまで届かなかった。

●日本にほしい世紀を打破する新メディア

日本で新しいメディアの登場を阻んでいるのは新聞の地方独占かもしれない。最近そんな気がしている。

メディアの経営は難しいといわれているが、地方における地元紙の経営はけっこう盤石である。四国でも九州でも「新聞」といえば地元紙のことである。シェアは70%から80%もあってまず競争がない。ついで放送局を併せて経営するところも少なくない。

朝日と読売が何回か攻勢をかけて拡販を目指したが、いまだに揺らいでいない。北海道新聞から沖縄タイムズまで合計すると発行部数は2000万部を超す。つぶれたのは滋賀日日新聞、東京タイムズ、福岡日日新聞など大都市圏に近い新聞だけである。

だが、目を世界に転じると、アメリカではこの20年に「CNN」という新しいワールドワイドはテレビ局が生まれ、「US Today」という全国紙も登場した。オーストラリアの地方紙のオーナーだったマードック氏が欧米のメディアが席巻した。また香港ではアジアサット衛星にのせて新しい「スターTV」がアジアの情報をシャワーのように流すようになり、「萍果」(リンゴ)という新聞が影響力あるメディアとして誕生した。

この20年に生まれた世界の新しいメディアはすべて既存の概念を打破し、サービスエリアも既存の国家や地域から脱したところにその成功があった。日本にも世紀を打破するような新しいメディアがほしい。