執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

年初来、ことしのテーマについて考えてきた。ミレニアムという歴史の一大通過点であるにもかかわらず、マスメディアは今年に限って新たな指針を打ち出していない。確か去年はあったはずなのだが、1年を経て思い出せないということは大したテーマでなかったのかもしれない。
萬晩報は「個の確立」を掲げたい。
4年前、大蔵省の幹部に対する過剰接待という不祥事が相次いだ。その前には厚生省のエイズ問題があった。いまは神奈川県警の連続不祥事である。すべて犯罪となった。東海村の放射能事故に対する科技庁の危機管理能力の欠如も不作為とはいえ公務員の犯罪のはずだ。極めつけは横山ノック大阪府知事である。すべて「個」の欠如としたい。
20世紀後半の日本社会の牽引車は経済だった。政府の指導の下で繁栄の時代を築き、最後の10年で多くを失った。失ったものが経済的繁栄ならば回復は難しくない。だがわれわれは最後の10年で日本人を失ったのである。
この10年、企業トップと官僚による責任回避が特に際立った。企業や国家を運営する場合、問われるのがリーダーシップだが、能力なき指導者による経営破たんが犯罪であり、官僚による不祥事の秘匿も犯罪であることが常識となった。ともに破廉恥罪である。
●司馬遼太郎が本当に叱ったのは自称「司馬ファン」たち
3年前の取材ノートをめくっていたら、1996年2月17日の項に司馬遼太郎氏の死に言及した部分があった。「現代日本に欠ける『私』感覚」とあった。そのころ取材ノートにときどき「一日一言」と称して文章を書き連ねていた。
まずは4年前に書いた「現代日本に欠ける『私』感覚」を読んでもらいたい。
昨年前半、よく書いた「一日一言」を再スタートしようと思う。日本という国に対して愛想をついたのがこの「一日一言」への執筆意欲の減退につながった。
良識ある国民はもはや怒りを通りこしたというのが実感であろう。どちらを向いても救いがない。しかし日本人として、言論人の一人として、ただ事態の成り行きを看過するわけにはいかない。
その経緯は司馬遼太郎の死にあるのかもしれない。2月17日、憂国の作家が死んだ。晩年、小説を書くのをやめ「街道をゆく」で土地土地の歴史を掘り起こし、歴史評論で日本を叱り続けた。
政治家や官僚にも経済人にも自称「司馬ファン」は少なくない。しかし、叱られているのが自分のことだとは誰も思っていない。恥じ入ることもない。日本という国家を1億総白痴にした責任は誰にあるのか考えようともしない。それもそうだろう。司馬遼太郎に叱られているとさえ感じていないのだから。
司馬遼太郎が「明治という国家」のなかで明治の政治家や官僚について度々言及している。「透き通った格調高い精神でささえられた・・・」という形容詞を与え、国家運営に当たった人々の人格を高く評価している。
いま日本が必要としている人間像を明治という時代に求め、現在の日本人を励まし続けた。しかし、誰もそのことには気付かず、歴史小説の主人公にひたりきって司馬文学を楽しんだだけだった。
評論家もマスコミも、政治家も欠けているものがあまりに多すぎるが、ひとつ挙げよといわれれば「私」だと思う。私的行動や私的言論を奨励しているのではない。行動や言論の原点に「私」が欠けているため、何事においても責任感が生じない。
菅直人厚生相(当時)が偉かったのはおのれの感性で1980年代前半のHIV感染に対する国家の犯罪を認め、率直に謝罪した点ではなかろうか。こんな政治家が一人でも多く出てくることを望まないわけにはいかない。
菅直人氏の評価に関しては甘かったかもしれない。だが、当時の菅直人氏はやはり輝いていたはずだ。首相にしたい政治家のナンバーワンだった時代もあった。
●90年代が失わせた高潔という日本語
年末から年始にかけて、何冊化の本を読んだ。塩野七生氏の

「レパントの海戦」とシュリーマン「シュリーマン清国・日本旅行記」はおもしろかった。
塩野七生氏の「レパントの海戦」は1571年にベネチア、スペインを中心として連合艦隊がオスマントルコを破る物語である。その前の年にも同じ連合艦隊がトルコ海軍に向かうのだが、当代一とうたわれたトルコ海軍の前に一戦も交えずに帰国する。その時のベネチア海軍の総司令官ザーネはただちに職務不履行の罪に問われ、裁判にかけられて有罪となる。
当時のベネチア共和国は貴族による共和制をとっていた。貴族の子供は一定の年齢に達すると議員や官僚になる資格が与えられた。しかし、信賞必罰は厳格だった。責任をはたさない者への処罰は特に厳しかった。なるほど数世紀にわたり地中海の制海権を握っただけの国家だったのだ。
シュリーマンはトロイ遺跡を発掘したことで有名なドイツ商人である。40代で考古学を正式に学ぶ前に世界一周の旅に出て、中国と日本のことを旅行記に書いた。北京の紫禁城の記述が印象的だった。巨大な城壁であることを記した後でこう書き記した。
「城壁の中をに見ようと、隣の塔へ登った。二階建ての宮殿、それよりやや小さいいくつかの宮殿、寺々、そしてどっしりとしたあずまやを配した広大な庭園を見ることができた。すべてが顧みられず、いままだに朽ちようとしていた。伸びるがままの草木が、宮殿の青や緑の瓦や寺々、あずまやを埋め尽くしている。庭にしつらえられた大理石の橋も、多少とも崩れていないものはない」
王朝の末期症状がこれほどとは思わなかった。シュリーマンは1860年代の中国の印象として「無秩序と頽廃、汚れ」と表現しているのに対して、その次に訪れた日本に対しては正反対のことを書き連ねている。
「日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう」「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない」「彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることである。彼らは現金を受け取るくらいなら切腹を選ぶのである」
いまは完全に失われてしまったかつての美しい日本の描写がある。明治をつくったのは江戸時代の日本人である。高潔な個が日本にあったとするのは司馬遼太郎だけの思いではなかったのだ。