執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

西暦2000年をはじめに迎えるのは南太平洋のトンガ王国である。日本時間で31日午後7時に2000年の午前0時を迎える。地理的にはニュージーランド・チャタム諸島東方の人口55人のピット島が人が住むところで一番乗りとなるのだが、トンガが夏時間を採用してビット島をかわした。キリバスはこれに対抗して国の中央を走る日付変更線を東端に変更して「日の出一番乗り」という勇み足をすることになったそうだ。
西暦がキリスト誕生を起点とした年代の数え方で、グローバルスタンダード化しているのは事実である。悔しいがミレニアムが大きな時代の区切りであることも確かだ。一つぐらい騒がない国があってもいいのではないかと思いながら、萬晩報としてもミレニアムに少々知的刺激を付け加えたい。
●ルネッサンス期の数字はまだローマ表記
2000年はローマ数字で「MM」と表記する。どう書くのだろうとずっと考えてきた。答は意外なところでみつかった。百科事典と広辞苑である。ちなみに1999年は「MCMXCIX」で、1998年は「MCMXCVIII」と書く。少々解説を加えると「1、5、10、50、100、500、1000」をそれぞれ「I、V、X、L、C、D、M」と表記する。なんとローマ数字は5進法だった。
ただそれだけのことであるが、有史以来この表記が使われてきたわけではない。ヨーロッパにはそれ以前にギリシャ数字があり、その前にはメソポタニアとエジプトの数字が伝わっていた。中国では漢字による表記だったし、インドでは「ゼロ」を含む10進法が古くからあった。イスラム教徒たちが、10進法をヨーロッパに伝えたため「アラビア数字」として使われるようになった。
インド数字がヨーロッパに伝わったのは13、14世紀といわれるが、実際に市民たちが使っていたわけではない。インドで数字が現在の算用数字のように書かれるようになったのは15世紀だから、ヨーロッパの市民が算用数字を使うのはそのずっと後になるはずだ。
イエズス会のフランシスコ・ザビエルの石碑がマレーシアのマラッカにあるが、その年代表記はまさしく「MD・・」で始まるローマ数字だった。グーテンベルクの印刷術によって広まった当時の書籍に書かれた年代もローマのままだった。
イエズス会が発足した時、ヨーロッパではルネッサンスは始まっていた。ルネッサンスではまだローマを引きずっていたことになる。ヨーロッパはアラビア数字という新しいパラダイムを普及させるのにさらに数百年かけることになる。
●まだ500年足らずの西暦の歴史
だが、こんなことで驚いてはいけない。ルネッサンス期のヨーロッパでは1000年をかけた別のパラダイムが進行していた。「西暦=キリスト紀元」という概念である。
イエス・キリストが生まれたのはアウグストゥスが支配したローマ帝国が全盛だった時代のエルサレムである。その少し前にカエザルがエジプトから太陽暦を導入しユリウス暦と称した。これは現在われわれのグローバルスタンダードとなっているグレゴリー暦の基礎となっている。
だが、まさかイエスが「おぎゃー」といった瞬間に「はい西暦です」となったはずがない。ローマ時代に採用していたのはローマ建国紀元暦であるから、ローマ暦752年の12月25日に生まれたはずである。キリストの生誕日に関しては諸説あるし、そもそもユダヤ人たちはローマ暦を使ったかどうか分からない。ユダヤ暦で言えばアダムとイブの創世記から3952年となる。
キリスト教徒の方には申し訳ないが、イエスの誕生は近しい家族だけの出来事だったはずだと思う。

キリスト教がローマ帝国によって公認されるのはローマ暦1065年(AD313年)、コンスタンティヌス帝の時代である。そしてローマ帝国の国教となるのが79年後のローマ暦1144年(AD392年)ということになる。
実はキリスト紀元(AD)=「主の年」(anno Domini)から何年という年号の数え方はローマの修道士、ディオニシウス・エクジグウスが発案した。キリストが生まれた年を元年として逆算して、その年をAD525年とした。このスキタイ生まれの修道士が新しいパラダイムを生まなかったらいまごろ、歴史をどのように学んでいたのか考えると不思議な気持ちにならざるをえない。
●イエス誕生525年に発案されたキリスト紀元
キリスト紀元がADとなったのはさらに後のことで、ディオニシウスは当時、新しい年号の呼び方をAB=「主の体現より(ab incarnatione Domini)」と呼んでいた。岡崎勝世埼玉大学教授の「聖書vs世界史」(講談社現代新書)によると当時、ローマでは多くの暦が使われていたそうだ。
一番日常的だったのはローマ皇帝の治世何年という呼び方だったはずだが、過去の歴史を記述するにはローマ建国暦やオリンピアド紀元があり、キリスト教の聖職者たちは歴史を語るのに創世記を使っていた。
ディオニシウスがキリスト紀元を編み出したきっかけはキリスト教最大のお祭りであるイースター(復活祭)の日程である。復活祭は春分の日の後の最初の満月の次に来る日曜日と決まっている。
毎年移動するこの祭日の日取りは早くから計算されて表になっていたが、ディオニシウスがこの表を作成する必要に迫られた525年には表の残りがあと6年となっていた。次の表をつくる必要からイエスの復活の年を逆算した。イエスの復活は30歳のことであったから、さらに30年遡って、生誕のその年を「元年」と呼ぶことに決めたということである。
●中国との出会いが生んだ「BC」という概念
ところがこのADが定着するにはさらに1000年の月日が必要だった。キリスト教の世界で歴史の始まりは天地創造だから、そこから前に歴史は存在しない。カトリックの聖職者たちはエジプトの古代文明もメソポタミア文明もなんとか天地創造からの歴史に押し込めることに成功していた。だが、どうしてもそれよりも長い歴史があることを認めざるをえない事態に直面した。
中国との出会いである。16世紀初頭にはポルトガル人が東洋にやってきて、中国人がつづった歴史の長さに驚いた。年代が極めて正確に記され、どうしてもノアの洪水伝説以前に、遡る必要が生じたのである。
ここにもう一人のディオニシウスが17世紀に登場する。オルレアンのディオニシウス・ペタヴィウスである。歴史上初めて、BC(キリスト前)で歴史の記述に用いた。この概念をさらに敷衍したのがフランスの思想家ヴォルテールだった。著書「歴史哲学」では、BCは「通俗紀元前」(avant notre ere vulgaire)として、また紀元後はADをつけずに数字だけで表記する手法を用いた。
年代から「キリスト」とか「主」という概念を取り払って単なる年代的符号化したことは後世からみるとコペルニクス的発想の転換ともいえよう。
●数え切れない世界の紀元と暦
さて西暦2000年1月1日である。この1カ月、人に会う度に各国の暦について尋ねた。西暦とイスラム暦ぐらいだろうと考えていたのが間違いだった。
「日本では平成12年元旦。戦前に皇紀2600年を祝ったはずだよな」

「2000年1月1日はイスラム暦で1420年9月24日だ。太陰暦を採用している国ではそもそもまだ新年ですらないんだ」

「エチオピアでは公文書にはエチオピア暦というのが併記されていたんだ」

「台湾は1911年の辛亥革命で中華民国元年を正式に宣言した。来年は民国89年になる」

「そうそう韓国の壇君暦って古いんだ。北朝鮮は最近、1911年の金日成の誕生日から換算して主体という年号を始めたのを知っているかい。モンゴルでもチンギス・ハーン紀元というのが生まれているらしい」
「タイの仏教暦は意外と知られていないはずだ」
こんな会話が延々と続いたが、だれも確証をもっていなかった。
日本には昭和とか平成という元号があり、かつては神武天皇即位を紀元とする年代記として皇紀があった。日本が元号を初めて導入したのは中大兄皇子の時代の「大化」(西暦645年)である。皇紀が使われだした時代はまだ調べていないが、明治の初めにすでに教科書に使われていたようだ。明治7年に小学校用に編纂された「世界史」のオリエントの項目にアダムとイブの伝説に触れ「紀元前およそ4000年(神武天皇紀元前3250年)」とある。
朝日新聞12月16日の家庭欄に「実は知らない西暦の話」という特集が組まれ、東京新聞の12月26日のサンデー版に「世界の紀元と暦」という特集があった。参考にしてほしい。
本号が1999年最後のコラム。来年は1月6日からの予定です。みなさんよいお年を!