2000年01月12日(水)Conakry発 齊藤 清通信員

 昨年のクリスマスイヴには、象牙海岸共和国(コートジボワール)でクーデターが実行されました。昨年12月24日付の号外でその第一報をお知らせしたのですが、その後はどうなったのか、というお気遣いの問い合わせをいただいています。

 極東の国の大新聞は、西の果ての国々のことなど、丁寧には書いてくれませんし、個別にお答えするのも煩雑過ぎますので、ギニア在住の不肖私めが、隣国への国境侵犯を承知の上で、いかにも見てきたような少々くさいレポートを、新年早々のお目汚しにお届けします。いくぶん退屈かもしれませんけれど、少しの時間お付き合いいただければ幸いです。

 ◆クリスマスプレゼント
 1999年12月24日正午近く、アビジャンにあるフランス大使館の正門に、黒っぽいスーツの小柄な黒人を乗せた公用車が、門番に誰何されることもなく、静かに吸い込まれていきました。事務所に入ったその男は、疲れた表情のままマイクに向かい、ラジオフランスのアフリカ向け放送で流されるはずのメッセージを、事務的に淡々と読み上げます。

 このメッセージは、国民に対する抗戦の呼びかけと、この不法なクーデターに対して、国際機関の救済措置を求めるものではありましたが、抑揚のない声はすでに訴える力を失っていて、そのどれもが不可能であろうことを、そこに居合わせたフランス人はもとより、たった今失脚したばかりの本人自身が良く理解していました。

 同じ頃、市内のテレビでは、迷彩服にブルーのベレーをのせた恰幅のいい男が映し出され、「コートジボワールの大統領」と紹介されていました。

 次いで画面が切り替わり、どこかの家の庭で、灰色の塀を背にし、シャツをはだけ、疲れ果てて不安げな表情の内務大臣が、「軍はコートジボワールのために働いている」と告げていました。それは「叛乱軍」に一時拘束された前政権の大臣の姿でした。

 ◆フランスへ行きたしと思えど
 翌25日は、フランス大使と「新」大統領との間で、「前」大統領の扱いについての交渉が続けられていました。

 そして26日朝、フランス大使公邸で永い二夜を過ごした「前」大統領ベディエ氏は、フランス当局者に対して改めて「脱出」の意思を表明し、待機していたフランス海兵隊第43部隊の護衛で、フランス大使公邸からアビジャン空港近くのPort-Boueに移動。ここからフランス軍のヘリコプターAS-555を2機連ねて、家族と共にガーナを越えてトーゴ共和国の首都ロメへ。

 年が改まった1月3日、「前」大統領ベディエ氏は、3カ月間の観光ビザで、パリ・オルリー空港からフランスへ入国。

 前年3月には大統領としてフランスを公式訪問したばかりの氏は、出迎えのフランス政府関係者に「また来ました」と挨拶。

 ◆借金依存国家の宿命
 この無血クーデターは、表面上は、1999年12月23日朝から突発的に軍の叛乱が開始され、ほぼ24時間後には大統領が交代していた、ということになるわけですが、水面下の動きは当然かなり早くから始まっていました。またその火種についても、時系列的に動きを追ってみます。

 国債発行というお玉じゃくしの共食い制度を持たないアフリカのほとんどの国々は、IMF・世界銀行等からの借り入れを前提としての国家予算を組んでいます。予算の4-5割をも借り入れに依存している自転車操業の発展途上国はザラにありますから、その融資がストップされれば、たちまちのうちに公務員の給料不払い、借入金の返済遅延等々、多くの障害が発生するシステムが完璧にできあがっています。

 蛇足ながら、極東の国債大国の場合は、借換債を含めた平成11年度の国債発行額は79兆円で、国家予算の実質的な国債・借金依存度は、発展途上国の平均的数値をはるかに上回る61%以上になります。

 現在では、アメリカの国策銀行であるIMF・世銀のコントロールは、旧宗主国の隠然たる精神的・経済的影響力以上に、直接的にその国の行く末を左右し場合によっては、その政権を吹き飛ばすことのできる充分な腕力を持ってしまっています。

 ◆しのびよる影IMF
 コートジボワールの主要な輸出産品であるコーヒー・ココアの国際価格には、フランスから独立した当時の輝きはなく、80年代にはすでに国の経済を支える力を喪失していました。それからはご多分に漏れず、長期にわたって経済の不振が続き、遺産を食いつぶす日々が続いていたわけですが、それに加えて、政権の腐敗を糊塗するために独裁体制がいっそう強化され、国民の不満は当然のように高まっていきました。

 そこへ、IMF・世銀という地球規模の権力が、コートジボワールの財政運営の不健全さ、はっきり言えば国庫金の横領が目にあまる、という理由で、1999年3月から、融資ストップという銃の引き金を力いっぱいに引き絞りました。それまでのIMFの監査では、なぜか指摘されなかった闇の部分ではあります。

 政権の生殺与奪権を握っている巨大な権力が、融資凍結という強力な銃弾を放ったわけですから、その殺人的効果は絶大です。

 ◆満を持して火を放つ
 そうして、時の政権が財政運営に苦しみもがき、同時に腐敗が極点に達して大衆の支持をほとんど失ったその時、元IMF副専務理事で、前政権では首相を務め、現在は「野党」RDRのリーダーとなっていたワタラ(Ouattara)氏が、2000年10月の大統領選挙への出馬を表明しました。それが1999年8月1日のことです。

 ところで、この対決には、忘れられないひとつの因縁があります。1993年12月当時のボワニ大統領の死去に伴って、国民議会議長であったベディエ氏が暫定的な大統領に就任した時に、当時首相であったワタラ氏を更迭し、IMFの副専務理事に転出させました。このベディエ氏こそが、今回フランスへ「脱出」したあの大統領だったのです。

 ◆出自をめぐる疑念
 「野党」RDRリーダー・ワタラ氏の大統領選挙への出馬表明を受けて、当時のベディエ大統領は、ワタラ氏が提出した出自についての証明書類への疑念をさっそく表明し、もっぱらこの点での攻撃を開始しました。ワタラ氏はその出自に問題があり、大統領になる資格がないと。

 西アフリカ一帯での出自についての考え方は、両親双方がその国で生まれている場合に限って、その国でその両親から生まれた子供がその国の大統領になる資格を有する、というものです。これは、つい少し前に植民地として分割されるまでは、現在の国境とは無縁の伝統的な支配体制が存在したことから考えれば、あまり適切な輪切りの仕方とも思えませんけれど…。

 ともあれ、号外でも触れましたように、ベディエ陣営は、密使に600万FCFA(およそ100万円)を持たせて、捏造書類を調達しようともくろみました。それを公開することで対抗馬の出鼻を叩き、選挙以前に相手を葬り去ろうという作戦でした。しかし、これは露見して失敗。

 ◆燃え続ける国内
 その後も、ベディエ陣営とワタラ氏との綱引きは続きます。しかしながら、コートジボワールのような独裁体制国家では、当然のように政治犯という制度が存在していますから、大統領の対抗馬がその国内で政治活動をすることは、かなりの危険を伴います。そのため、9月19日大統領公邸での会談を最後に、ワタラ氏はコートジボワールを離れ、パリに移動します。

 この後にも、国内ではワタラ氏率いる陣営が過激なデモをしたり、鬱屈した国民の不満が抗議行動として展開されたりと、しだいに一触即発の状況がかもし出されていきました。氏がリーダーを務める政党RDRの幹部も多数逮捕されました。

 ワタラ氏は、「わが国は民主主義を必要としている。そのためには、私も代償を支払う覚悟がある」として、11-12月の帰国を示唆する発言も聞こえていました。

 これを受けて、12月8日には、ワタラ氏の逮捕状が発行されました。フランス、アメリカ、イギリス等、少しでも信念を持った大国は速やかにこれに反応して、ベディエ政権に対する懸念の表明と、フェアな選挙を望む声明を出しています。

 ◆話し合い不成立
 そしておそらくは10月頃から、水面下で、ベディエ「前」大統領と軍幹部の話し合いが始まっていました。しかしながら、12月20日頃、大統領自身がすでに当事者能力を喪失したと判断した軍幹部は、「無用な市民戦争を避けるため」に、現職大統領を追い出す行動を最終的に決断します。

 12月23日、若年兵士による騒乱開始。空に向けて自動小銃を乱射し、一部の商業地区では、店舗の破壊、商品の略奪をしています。彼らは、単純に待遇改善を要求する示威行為、との認識で動いていました。

 ここで、1995年の大統領選挙の後にベディエ氏が正式に大統領に就任した際、軍の参謀長を更迭された経歴を持つゲイ(Guei)氏が、軍幹部に請われた形で登場します。氏の人望は、軍を的確に把握するためには必須のものでした。

 そして12月24日朝、ゲイ参謀長は軍の交渉団と共にベディエ大統領と最後の対面をします。その要求には、政治犯として逮捕されている、「野党」RDRのメンバーの解放も追加されていました。

 ◆暫定政権成立
 交渉決裂後は、冒頭でお話ししましたように、国民へのクリスマスプレゼントとしての無血クーデターが成立したわけです。もっとも、ゲイ新大統領は当初、「これはクーデターではなく、革命だ」との言葉を口にしてはいました。

 RDRのワタラ氏は、12月29日に避難先のフランスから喜色満面で帰国して、手際良く「野党」R DRのメンバー複数を、大蔵大臣をはじめとする主要閣僚として配置します。

 ゲイ新大統領から、政権への参加を要請された社会主義政党FPIのリーダー・バグボ(Gbagbo)氏は、民主主義の確立のために暫定政府への協力はするけれど、閣外から見守りたいとして、閣僚を送り込むことは固辞し続けていました。これはひとつには、主要なポストはワタラ氏率いるRDRのメンバーに占められることをはっきりと理解していたためでもあります。しかし1月10日、最終的には6閣僚を送り込むことに同意。

 ◆軍事クーデターともいえない事情
 RDRのリーダー・ワタラ氏は、「これは私の政府ではない」、「ゲイ大統領は、そのポストに執着しないといっている、できる限り早く大統領選挙が行われるだろう」と言明し、同時に、前政権によってこじれたIMFとの関係修復を、まず最優先の仕事にすべきである、とも発言しています。

 ワタラ氏は否定しているものの、暫定政権へのみごとな参入ぶりと周辺の動きを追ってみると、ワタラ=軍、の連携プレーが透けて浮かび上がってきます。

 例えば、暫定政府の大統領となったゲイ氏は、11月はパリに旅行していて、クーデターの発生する半月ほど前に帰国した後、故郷の村で「待機」の体制に入りました。これは、パリでの「打ち合わせ」があったと考えるのが自然です。

 いうまでもなく、ゲイ氏、ワタラ氏は共に、独立後のボワニ大統領の時代に、参謀長、首相を務め、次の政権成立時にはほぼ同時期に更迭された人物でもあります。また、今回、内務大臣、外務大臣のポストについた幹部軍人は、ワタラ氏が首相だった時代の護衛担当でした。この二人がワタラ氏と同地方・同部族の出身であることも、この国では忘れてはならないキーポイントです。

 ◆ひとりごとですが
 昨年4月にはニジェール共和国大統領の暗殺。5月には、ギニアビサウ共和国大統領の国外追放。そして12月には象牙海岸共和国で現職大統領の国外脱出。どれもが、まったく似たような国内状況で起こったクーデターでした。さらに西アフリカには、これらに似た状況の国がまだいくつか存在していることを考え合わせると、この2000年も目が離せない地域ではあります。

 また、今回の「象牙のクーデター」は、「IMFの実験」がみごとに功を奏したモデルケースとして、借金依存国家の政権担当者に、見たくはない悪夢を送り続けることでしょう。(『金鉱山からのたより』2000/01/11 第26号から転載)
*以上の記事は、BBC、CNN、RFI、AFP、Le Monde、Jeune Afrique、現地紙、ギニア紙、独自の材料等を参考にしています。

 *コートジボワールの首都は正式にはヤムスクロ(Yamoussoukro)になるのですが、実質的な首都機能はアビジャンにあります。国の羽振りが良かった時代に、首都をヤムスクロに移転してはみたものの、今では目障りな存在になってしまいました。

 *(少し)参考になる日本外務省の資料:http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kankei/f_cote.html
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