住金事件「日向方斉・私の履歴書」より
執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】
官僚と企業との贈収賄事件が多発する癒着の背景には、官僚に弱みを握られる経営者の姿勢にも問題がある。むかしから日本の経営者が官僚の言いなりになっていたわけではない。昭和30年代から40年代にかけては気骨ある経営者がいた。18日のコラム「一人じゃないよ。俺もやめるよ」で紹介した本田宗一郎氏はホンダの乗用車進出を認めようとしなかった通産省首脳と大論争を起こした。大和銀行は都銀からの信託業務分離を強行しようとする大蔵省を相手に国会で大論陣を張った。旧三光汽船の河本敏郎氏は運輸省の反対を押し切って保有船舶の大規模怪獣を図った。監督官庁に抵抗することはその後の許認可にとって大きな不利があることを知りながら、あえて自説を曲げなかった。
住友金属工業の日向方斉氏もまた、カルテル指向を強める通産省と1970年に新日鐵として合併した富士、八幡両製鉄を向こうに回して正論を貫いた。日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」からそのやりとりを抜粋した。
●大臣が承知したことを次官が覆すのはどういうことか●
いわゆる『住金事件』起きたのは、住金が高炉建設を軸に、業容の急展開を進めていた、そのさ中であった。和歌山に高炉2基体制ができたのは昭和38年4月。さらに2年後には3号高炉が完成した。そのころから業界の雲行きが怪しくなってきた。
事件の発端は40年11月15日、同年度第3四半期(10-12月)の粗鋼減産について住金が、通産省の指示に異を唱えたことにあった。当時の状況下で、一民間企業が監督官庁の指導にあからさまに逆らったのは、異例の出来事といえた。
粗鋼の減産が始まったのは、その前の第2四半期からである。わが国の鉄鋼業界は31年から競って合理化拡大の道を進み、総額5000億円を上回る大型設備投資を実施した。39年には米ソの次ぐ世界第3位の鉄鋼生産国にのし上がった。さらに将来の需要増に対応すべく生産力の増強に取り組んだが、おりからの不景気で国内市況は悪化した。
第2四半期の場合は業界の自主減産だったこともあり、住金はその期限りの緊急措置として同調した。ただ、各社別生産枠の決め方には問題がある、と繰り返し主張はしていた。ところがその案にはわれわれの考えがほとんど取り入れられていなかった。私は「これでは企業の自主性が損なわれ、従うわけには行かない。当社独自の減産案で臨む」と宣言した。
減産枠を決める基準時のとり方、新設備の生産枠など問題はいくつかあったが、最も容認できなかったのは,輸出の取扱いだった。当時わが国の外貨準備高は20億ドルが天井で、輸出振興が至上命令になっていた。それなのに、生産枠は国内と輸出をひっくるめた総枠で抑ええ込まれたのである。「国内の市況対策として国内の制限するのは止むを得ない。しかし輸出は別枠にすべきである」とわれわれは主張した。輸出比率が高い住金にとって、死活問題となるという現実的を事情もあった。
11月18日夕刻、三木武夫通産相に会見を申し入れ、とえあえずの妥協案を出した。「基本論を話し合うには時間が足りない。問題を第3四半期に限り、輸出の取り扱いをやや弾力的に運用してもらいたい」。三木さんも「そうだな」とうなずいてくれた。事務レベルで数字を詰めることにし、私はその旨記者会見で発表、新幹線で帰阪しようとした。
東京駅で待っていると、岡崎道夫常務が駆けつけてきた。「通産省が第3四半期に限り、という条件つきでは受け入れられないと言っている」という。「そんなバカな。担当局長も“最悪の自体を先に延ばそうということですね”と一時休戦を確認していたではないか」-私は新幹線の中から三木さんに電話をかけた。三木さんの答えは「そういう強い主張は聞いたが、私は了承していない」という、はなはだ意外なものだった。
翌19日、今度は三木さんの方から電話があり、「第3、第4四半期を通じて通産省の指示案を受け入れてほしい」と言ってきた。通産省はその日の午後1時までに最終回答せよという。もう話し合いの余地はないと判断、「お断りする」と回答したところ、次官声明の形で「(住金に対し)粗鋼生産用原料炭の輸入割り当てを削減することもやむを得ない」と通告してきた。
フェアな理論闘争をしている間はない。しかも原料炭割当制度を定めた石炭業法は、国内炭を保護するのが目的で鉄鋼生産の調整に適用されるいわれはない。私は佐橋滋通産事務次官のところに赴き「そもそも大臣が承知したことを次官が覆すのはどういうことか。国会で石炭業法の目的を改めて聞きたい」と迫った。そのころになってようやく、事件の主役が三木さんでなく、八幡、富士製鉄など先発各社と佐橋次官であることが見えてきた。●「稲山・協調哲学」と「日向・自由競争哲学」●
「住金事件」の根はもっと深い所にあった。粗鋼生産のシェア争いである。八幡、富士製鉄など先発会社は、住金、川崎製鉄、神戸製鋼所の関西3社の追い上げを阻むため、ここで一気にシェアを固めておきたい意向をもっていたようだ。しかしそれでは後発メーカーは立つ瀬がなし、そもそも自由競争原理に反する。特に住金は35年度から5年間に粗鋼生産シェアを5.8%から10.1%へと伸ばしていた。もっともこれは子供から青年になる過程で、急激に成長するのと同じようなものだった。
事件の序曲として、昭和41年1月の設備調整問題があったと思う。故永野重雄日本鉄鋼連盟会長(富士製鉄)の提唱で設置された鉄鋼設備投資調整研究委員会で、高炉などの1年間着工中止が提案され紛糾した。住金は和歌山4号高炉の建設に取りかかっており、工事を引き延ばされるのは耐えられないと反対した。この問題は永野さんの後に就任した稲山嘉寛鉄連会長(八幡製鉄社長)が、高・転炉の新設は各社の判断に任せるとの裁定を下し一応収まった。一方で設備調整と別に、第2四半期からの生産調整を提案してきたのである。
こうした経緯を経て、問題は行政指導の扱いをめぐる対立に移行、住金と通産省が正面から対決する事態となった。佐橋次官の言い分は先発メーカーのそれは全く同じだった。しかも「住金が言うことを聞かないのなら、原料炭割り当てを減らす」というのだ。不当な行政指導を強制したのでは、それは官僚統制になると思った。11月26日、大阪で開いた株主総会で、それまでの経過と私の考え方を説明、支持を得た。誘導組合も全面的に応援してくれた。
事件を通じて世間で対比されたのが、「稲山・協調哲学」と「日向・自由競争哲学」である。稲山さんの考えはシェアを固定しようとする一種のカルテル論であったが、これも先発メーカーの既得権益を守ろうとする立場から出たのかもしれない。
そうこうしているうちに、騒ぎはますます大きくなる。住金以外の鉄鋼メーカーはこぞってこちらを批判するし、東京の財界も協調主義的空気が強い。そのうち公正取引委員会が「原料炭割り当て削減は問題がある」と公式見解を出すまでになった。
財界人も動きだし、ある日、中山素平興業銀行頭取の仲介で、永野さん、稲山さんに合った。必ずしも議論がかみ合ったわけではなかったが、結局私が矛を収めることになった。一つには住金の主張を世論が支持してくれたこと、一方で市況が一段と悪化していたからである。
12月27日、三木通産相を訪ね、「41年度第1四半期以降は根本的に再点検する」との言質を得て、通産省の指導を受け入れた。
結果的には第4四半期の住金の生産枠から、第3四半期の超過生産分8万7000トンが削られたが、第3、第4を通じて、約12万トンの輸出得認を得た。問題の生産シェアについては不満が残ったが、設備調整の理論について住金の意見も尊重され一歩前進した。
それ以来、鉄鋼業界はかえってまとまりがよくなり、八幡、富士合併の時も、私は「日鉄の分離自体が、財閥解体、集中排除に伴う不自然なことだったし、両者が望むならいいではないか」と今回で証言した。そのころには住金は先発各社と十分競争していける自信がついていた。