執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】

昨年12月のある深夜のことである。朝日新聞が社会面で「中島義雄氏が京セラ入社」を報じていることが分かり、共同通信社もそのニュースを追いかけた。中島氏といえば、元大蔵相の主計局次長。金融機関からの過剰接待が問題となって辞任した人物である。いつも正論居士として発言してきた稲盛和夫氏の京セラが「どうして」「なぜだ」。デスクとしての義憤があった。「京セラよおまえもか」という思いが頭をよぎった。

一般の新聞読者には分からないことだろうが、大手マスコミは翌日の「早版」朝刊を深夜の街角で交換する習慣がある。東京都内や大阪市内には「最終版」という紙面が配達される。各紙が特ダネで勝負するのはこの「最終版」であり、早い時間にニュースの掲載を打ち切り印刷された「早版」交換で各社は落としたニュースがないかチェックするのだ。

「中島義雄氏が京セラ入社」のニュースはいわば、朝日新聞の独自ダネであった。翌々日、京セラの伊藤社長は要望のあったメディアに対して、釈明インタービューを受け入れた。取材した記者は夕方興奮した声で「中島が同席したんですよ」と伝えてきた。なんら動じることなく、過去を恥じるようでもなかった。実に堂々とした様子に記者の方が圧倒されたという。

伊藤社長は「一般の途中入社の募集に中島氏が応じてきた。過去の経歴や個人の力量を考えて採用した。過ちを悔いるものを受け入れて悪いはずがない」というような内容の発言をした。

町のチンピラが、長い刑期を終えて過去を悔いたのとは訳が違う。捜査当局の判断次第では刑事被告人になっていたかもしれない人物である。大蔵省の大幹部だったからこそ、刑事訴追を免れたのは明白である。中島氏が「過去を悔いた」といっても「刑に服した」わけではない。「償い」は終わっていない。

筆者も1987-88年の間、大蔵省の記者クラブである「財政研究会」に属したこともある。当時、中島氏は主計局の厚生・労働担当主計官だった。向かいの部屋に運輸担当の主計官として田谷氏がいた。この二人はつっけんどんで愛想のない大蔵官僚のなかで新聞記者の人気者だった。いつでも気さくにわれわれの取材に応じてくれた。田谷氏は自民党が整備新幹線の建設再開を決めたことに対して「昭和の三バカ大査定」と評してマスコミの寵児となった。

金融機関から過剰接待を受けていたのはこの二人だけではない。ほとんどの官僚の日常生活に接待飲食とゴルフが溶け込んでいた。たまたま名前が浮かんだのは、度が過ぎていたのかもしれなし、運が悪かったのかもしてない。だからといって、京セラが中島氏を中途採用する理由にはならない。

リクルートの未公開株の譲渡で労働省の事務次官らが逮捕された事件が起きたとき、ある大蔵官僚が「あいつらは脇が甘いんだ。接待慣れしていないんでないか」と言っていたのを思い出す。通産省では「課長にもなって夜の予定が入っていないようでは将来はないな」と豪語する課長もいた。月曜日の午前中、建設省で取材していた時に大手ゼネコン風の人が入ってきて「きのうはどうも」と大声を上げていた光景に出くわしたこともある。

高度成長時、民間企業に接待費があふれ返っていた。安月給だった官僚がそのおこぼれに預かってなにが悪いという時代もあった。しかし時代は変わったのである。

われわれ新聞記者の特性は「忘れやすい」ということである。国民も同様だ。昨夜、神戸に出かけて大震災3周年の記念行事に出席して「4年前に国民の目がこの阪神・淡路地区に釘付けにされた」ことを思い出した。ゲストの加山雄三氏が「実はいてもたってもいられなくなって家族全員を引き連れて東京駅の街頭に立って募金活動をした。みんなそうだったでしょう」と打ち明けた。 官僚の犯罪も風化させてはならない。18日、東京地検特捜部は野村証券にからむ外債発行をめぐる汚職事件で大蔵省OBの日本道路公団理事を逮捕した。