「フィリピンは日本でイメージが良くないので私が頑張らなければ」。PITC(フィリピン国際貿易公社)の東京支社長。といってもたった一人で家具、加工食品、雑貨などフィリピン産品を売る。昔の日本のジェトロ(日本貿易振興会)のような仕事だ。1994年9月の来日から一年半でようやく充り上げが5000万円に乗った。
 中小企業を中心にひと月に3、40件の営業をかける。飛び込みもある。列島行脚は関西、九州までおよび、名刺の束を数えたら1000人を超えた。日本の中小企業の経営者は「思ったより
発想が柔軟。大企業と違って決断も早い。そしてヒューマンだ」という。
 日本で受けた注文をフィリピンの製造業者につなぐ。コンテナ単位だから1回の商売は300万円前後だが、数十万円ということもある。コストを考えれば割が合わないが「私の商売は
フィリピンの売り出し」と納得する。時々悲しくなるのは、フィリピン側が期待された商品を提供しない時だ。「私の責任じゃないけど顧客に迷惑をかける」。
 アキノ政権の時、日本政府はフィリピン経済の苦境を資金面で支えた。「当時はお金がある外国といえば日本しか見えなかった。いまでは香港があり台湾もある。ベトナムだってパートナーになる時代」。日本人はアジアの変化が分かっていないという。
 日本の中小企業のおやじさんは、マニラの名門のお嬢さん育ちのそこはかとなく漂う気品に位負けするようだ。昨年日本人と結婚したが1カ月で夫は転勤。「日本企業ってなんなの」。一人暮らしのストレスを解消するためカンフーを習いだした。「アチョー」