アジア経済のボーダーレス化が叫ばれて久しい。韓国や台湾など新興工業国地域(NIES)に引き続きタイやマレーシアといった東南諸国連合(ASEAN)諸国の経済的テイクオフが始まり、その勢いはまさに中国沿岸郎に押し寄せている。香港と広東省の経済的統合は「グレーター香港の形勢」などと語られ、台湾海峡をはさんだ台湾と福建省もボーダーレス経済の大きなうねりのなかにある。この2年余で台湾人の実に10人に1人が親族訪問の名で大陸を訪れ、400を超える台湾資本が海峡を渡り、短期間に福建省を日欧米への輸出基地に仕立て上げた。
 大量のモノ、カネ、ヒトの往来が始まり台湾当局もようやく重い腰を上げ始めた。熱くたぎった経済が冷えきった台中間の政治関係にも影響を与えようとしている。台湾海峡をはさんだ経済圏はもはや「ルビコン河を渡った」との指摘もある。、後戻りをできないほどの相互依存関係を構築していまっているといってよい。
 90年末に台湾と厦門市を訪れた。88年に見た厦門市との比較を踏まえながら、厦門市を起点に急速な「台湾化」が進む福廸省経済、そして福建省一台湾一東南アジアに築かれつつある福建系華僑のリンヶ-ジについて報告する。

 ▼ネオンきらめくリトル台北
 高級住宅街とされるコロンス島へのフェリーが忙しく発着する中山路周辺は厦門市のダウンダウン。鶯江ホテルの前には「換銭、換銭」と外貨を求める若者がたむろする。「夜総会」と称するナイトクラブでは歌姫たちが歌や踊りのショーを繰り広げ、「KTV」(個室カラオケのネオンサインにネクタイ姿の男たちが吸い込まれていく。
 まだまだ中国人にとっては高嶺の花であるが、台湾から怒濤のように押し寄せるビジネスマンや観光客向けであるのは当然だ。
 台湾資本によるホテルも昨年夏登場した。規模はあまり大きくはないが、11階建ての屋上に「台鷺大飯店」の赤いネオンが一際目立つ。台湾流のサービスが受けれることで台湾人ビジネスマンで賑わう。かつて日本人ビジネスマンがバンコクなど東南アジアで日本流の夜の街を作り出したように厦門市には何もかも「台湾方式」がビジネスチャンスを生み出しているようだ。いまや厦門市はリトル台北の異名を持つ。
 台湾人向けのマンションや別荘分譲も始まっている。厦門市だけでなく深圳などの経済特区では不動産開発がブームである。厦門市で特に関心を呼んでいるのが別荘の売買である。
「台湾山荘」という大きな看板が厦門空港から市内を枯ぶ幹線道路わきに立っている。
台湾から進出した三徳興がサイドビジネスとして開発しているもので、20万平方メートルの土地に豪華別荘を200棟建設中だ。敷地内にはショッピングセンターのほか、プール、ゴルフ練習場なども設置され、広告のうたい文句は「可以居可以遊可以玩」(住むによし、遊ぶによし)だ。
 敷地面積五百平方メートル、建坪400平方メートルの豪邸が23万ドルで売り出されていた。日本円にして3000万円を超える高級物件である。こうした物件が飛ぷように売れていくという。台湾の中小企業の財力は計り知れないものがある。
 88年から経済特区内での土地の売買が解禁となり、厦門市政府はこれまで計6回、不動産団地の公開入札を実施した。台湾企業が3件、香港企業が3件落札した。土地の上に建物を建てて自社用に使用してもよいし、さらにその一部を分譲してもよいことになっている。
 こうした別荘開発は主に台湾人向けで、三徳興不動産部の女性セールスマンによれば「台湾と大陸との距離は飛行機の直行便が飛べば40分。航空路が開股されれば本格的別荘地として注目され、資産価値も上昇すること間違いなし」という。そして実際に早くも値上がり益を狙った転充が始まっているとも聞いた。
 中国という上地で台湾人が造成、建設した物件を台湾人が買っていく不思議さは、日本人による香港での不動産投資とどこか似ている。台北で社会問題に発展している土地高騰が厦門市に波及するのも時間の問題のようだ。
 いまや台湾企業の動向が厦門市経済の将来のかぎを握っているいっても過言でない。台湾企業が大陸を目指す理由は当初は「安い賃金」が目当てだった。しかし、いまではそれだけでない。郊外に足を向ければ石造りのりっぱな邸宅がいたる所にみれる。台湾の親戚からもらった資金で建設したものがほとんどだ。もともと福建省南郎は石材の産地であるが、それにしても干乾しレンガの家が多い中国農村の実態にそぐわない感じ。文化大革命時代にはご法度だった寺社の修復も盛んでこの資金も台湾の有志からの寄付で賄われている。
 市内を案内してくれた厦門市外事弁公室の傅俊希君は「石造りの家だと福建省でも数百万円はします。いまや台湾人はお金持ちだから、ちょっとした人でもすぐに家が建つんです』と説明ししたが、一人当たりGDPが1万ドル程度の台湾人でもやはり数百万円の出費はそう簡単ではない。もともと台湾人の多くが福建省南部からの移民であり、親戚に家風をプレゼントしたり寺院修復に献金する背景には台湾人の「故郷に錦を飾る」という意識も多分にあるようだ。
 ▼殺到する台湾資本
 「聯發」一昨年厦門市の経済特区である湖里工業区のどまん中に芝生に囲まれた秀麗なピルが出現した。厦門市の関連会社が「共に発展する」という願いを込めて建設、真っ赤な紋章がひと際目立つ。台湾プラスチックや東帝士といった台湾の大手コングロマリットが次々と入居、台湾と大陸の経済交流の象徴的存在となっている。
 周辺には「吉利」「燦坤」「領雅」「翔茸」「三徳興」といった台湾の衣料や電機メーカー約200社が集中、経済特区は台湾村の様相を呈している。それもそのはず、厦門への間接投資が本格化してたった2年で外国からの投資の70%(約10億ドル)を占めるようになるほど台湾からの企業進出ラッシュが続いているからだ。
 厦門市は大陸から約1キロ雌れた面積131平方キロの島だ。島といってもいまでは堰堤と鉄橋でつながっているため交通の便に支障はない。80年10月設立された経済特区は島内中央部のー区画に設けられたたった2.5平方キロの「湖里区」だけだった。中央政府の認可によるもので、北京の期待もそれほどのものでしかなかったといえよう。
 それが84年には全島に拡大され、89年には対岸の大陸側に『杏林区』と「海漁区」の2つの経済区計126平方キロが追加され、合計で257平方キロになった。その2つの経済区では工業団地や労働者アパート建設のため、閑静な農村地帯を掘り起こし、何十台ものブルドーザーやダンプカーがうなりを上げている工事現場を随所にみることができる。中央の経済引き締め政策も何のその、まっしぐらに突っ走っている印象だ。理由は簡単だ。ともに台湾企業誘致を狙った中央政府お墨つきの「台商投資区」に指定されているからだ。
 台湾以外の国の企業が進出していけないわけではないが、既に工場が稼働し始めている
杏林地区では現実に進出企業のすべてが台湾もしくは台湾系企業の工場だ。
 張宗緒副市長の話では「厦門島の湖里区はハイテク工業、杏林区は繊維関連、そして海油区は石油化学など重化学工業を誘致する計画だ」。
 台湾系企業の進出第一号は三徳興。「聯發」ピルから歩いてほどないところに85年12月から操業を開始。挑帯電話機やコンピューターのキーボードに使用するシリコンラバーの文字盤を生産している。資本金五十万ドル、30人で始めた事業は倍々ゲームで膨らみ、手狭になった工場棟は毎年一つずつ増え、5年間で従業員も800人に、生産額は20倍の約1000万ドル(1ドル=140円換算で約14億円)になった。
 経理部長の高秉躊氏は「賃金の高騰で台湾では労働集約的産業は成り立たないと判断。シンガポール現地法人を活用して進出、厦門工場のおかげで三徳グループはいまや世界第二位のシリコンラバーメーカーに成長した』と厦門での成功を語る。
 しかしながら。厦門特区と台湾の経済関係は第二段階を迎えているといわれている。これまで進出してきたのは台湾ドル切上げや人件費の高騰などで台湾脱出を図った中小零細企業が中心で一件当たりの投資規模も100万ドル程度(約1億4000万円)でしかなかった。
 しかし90年に入って状況は一変した。長栄海運グループや中国鋼鉄、大同グループといった大企業のトップが次々と厦門市を訪れ、連絡事務所を開設したり投資の可能性を打診し始めたからだ。台湾政府は依然として大陸との直接貿易・投資を禁止しているものの、非公式とはいえ台湾の大企業が大陸との直接接触を開始したインパクトは計り知れない。
 台湾がこれまで得意としていた靴や雨傘といった雑貨に類する輸出産業は労働集約の典型で中小企業が貢献してきた。しかし、いまやその約半分が既に中国で製造拠点を確保しているといわれ、中国の得意技として輸出に貢献している。
 中国側ももはやそうした労働集約型産業の誘致だけでは満足しなくなっており、台湾側にさらに高度な産業の移転を要鋳している。そして現実に数億ドル(数百億円)規模の比較的投資規模の大きい事業の展開も既に始まろうとしている。厦門市特区では、中堅電機メーカーの燦坤が家電製品の製造を開始しているし、台湾の大手繊維会社である東帝士とインドネシア華僑財閥、リム・ショウリン(林紹良)グループとの合弁事業であるポリエステルプラントも順調に滑り出している。
 内外の関心を呼んだ台湾プラスチックによる厦門市郊外の海治地区への巨大な石油化学プラント建設構想は台湾政府への配慮から棚上げとなっているが、実は王永慶会長のこの壮大な計面が90年前半の台湾で巻き起こった「大陸熱」(ブーム)のきっかけとなったのだ。
 台湾の新聞が連日、王永慶会長の去就や発言を迫いかけ、報道陣が大挙して進出現場とされている厦門市の海滄地区まで押しかけた。この結果、「昨年初め、王永慶会長が厦門で進出計画を公表してから、大企業も行くならわれわれも、と投資ラッシュになった』(厦門市投資管理局)という。
 厦門市側でも台中経済関係はルビコン河を渡ったとの認識が広まっており、厦門大学台湾研究所の韓清海副主任)「台湾の有力企業のトップが次々とやってきて経済交流の可能性を模索し始めた効果は大きい。広東省と香港はもはや経済的に不可分の世界。台湾海峡をはさんだこの地域もいずれ同様な関係を醸成できよう』との考え方を示している。
 台湾と大陸の経済関係は既にヒト、モノ、カネが国境を越えて重層的、複合的に交流を深めており。厦門市を起点に中国の『台湾化』が密かに進んでいる。

 ▼直接往来への模索
 深圳や上海などと比較した厦門市の弱点は交通路の整備が国内外とも遅れていたことだ。地形的に山がちで沿岸郎の狭い平野で細々と農業に従事していたという歴史的背景もあり、国内の各都市との鉄道による接続は極めて不便である。
 このため航空便による交通網整備に力を入れてりる。北京や上海など国内25都市への航空路線がほとんど毎日飛んでいるほか、香港はもちろん、マニラとシンガポールへと国際線の定期便もある。今では中国の省都でもない地方都市の中でも最も国際化された空港を持つことはちょっとした驚きである。
 現在クウェート政府からの借款で厦門空港を拡張中だが、張宗緒副市長もこの点では最も切実な思いを抱いている。何度かインタピーに応じて貫ったが「航空路の整備が厦門市の将来にとって死活問題となる」と強調していた。
 もちろんいま一番欲しいのは台湾との直接航空路の開設だ。現在台北から厦門への道のりは香港経由またはマニラ乗り継ぎとなる。真っ直ぐ飛べば40分(約300キロ)の距離をわざわざ10倍の時間をかけている。もちろん台湾側が三不通政策の一環として直接往来を禁止しているからだ。
 筆者も台湾人の大陸訪間にまぎれて台北―香港―度門を飛んだ。午前9時に台北蒋介石空港を飛び立ち、厦門の高崎空港に到着したのが午後3時だった。台北からの乗客のほとんどが香港空港でのトランシット客で、空港内で改めてチェックインを求められ、1時間後の接続便でそれぞれ厦門、福州、上海へと旅立った。もちろん1日2便しかない厦門便は台湾人を満載、―つの空席もない状況だ。
 香港から大陸各都市へは日に何便も飛行機が飛んでいるからもはや台湾から大陸を訪れることは何ら障害はない。22年前には厦門空港で台湾人乗客の入国審査が優先され、“外国人“を苛立たせたが、いまやそうした特別の風鯛もみられない。特別待週を取らなくとも、年間100万人もの台湾人が大陸を訪問するようになっているからだ。
 台湾と厦門市との直行便の開設については昨年来、台湾の報道を大分賑わせた。台湾のナショナル・フラッグである中華航空など台湾の民間航空5社のトップが厦門市を訪れ、中国側と航路開設の可能性を模索したことは事実だ。厦門市で複数の要人から確認を取り、台湾側でも厦門市を訪問したという航空会社トップにも会った。
 昨年九月の北京でのアジア大会で台湾から直接北京に乗り入れるのではないか、との情報もあった。しかし、現実には選手団は香港のキャセイ航空を使って台北から香港経由で北京入りした。
 一時は厦門航空が北京に台北航路の開設を申請したという報道も流れたがこれは事実でない。そうした意向を持っていることは事実だが、時期は直接往来にはまだ早いようだ。中国側は「直接航路で営槃する台湾側の会社は、台湾は国内だから国内航空会社であるべきだ」との考え方。
 台湾側も中華航空が将来、大陸に乗り入れるという事態を想定しているわけではないようだ。89年には世界最大のコンテナ通送の船会社、長栄海運が新しい航空会社「エバ・エアー」を設立。既に大型機を含め26機を契約済みで、期待される大陸との大量輸送時代を想定した準備を進めている。一方、中華航空も台湾最大の金融機関である中国信託と合弁でダミーの航空会社設立中だ。日本航空が台湾路線を維持するための設立した「日本アジア航空」方式を踏襲したものだ。
 台中直接航路開設に関する面白いエピソードを紹介しよう。張市長は「私が東京で航路開設に意欲的な発言をしたら日本で報道され、その新聞を見た台湾の「連合報」の記者が市政府に国際電話してきて私に直接確認するんですよ』とアジアの情報距離の短さに苦笑していた。
 2年後になるのか、3年後か、時期については誰も分からないが、台中間に将来、直接の航空路が開設されること間違いない。誰がその利権を得るのか、台鴻の人々の関心事はもはやそんな次元まできているようだ。
 台湾から大陸への航空路が解禁となれば、台北の蒋介石空港は国外から中国各地へ乗り入れる巨大なハブ空港に発展することは確実視されている。香港の啓徳空港は発着能力の限界を超えており、北京や上海の空港設備、特に国内線乗り継ぎの難しさは空前絶後。誰もが台北経由で中国入りを希望することは間違いないからだ。
 そうなると、アジアの航空路線にも一大変革をもたらすことになる。台中航空路の開放は台湾海峡をはさんだ問題にはとどまらないのだ。