▼王永慶プロジェクトは棚上げ
 台湾企業の大陸進出が既に軌道に乗ったことは事実だが、大企業にとってはまだまだ政治の壁は厚い。内外の報道機関を振り回したあげく、結局、棚上げになった台湾プラスチックの厦門進出問題の経緯について説明、現時点での台湾財界の大陸進出に対する複雑な胸のうちを明らかにしたい。
 1990年11月22日、台湾プラスチックの会長である王永慶は滞在先の米国から台湾の主要マスコミに一通の書簡を送り、当面の石油化学コンビナート建設計画は台湾国内で推進することを公表、事実上、大陸でのビッグプロジェクトの棚上げが決まった。
 王永慶会長が90年初め、「厦門市で70億ドルをかけて石油化学コンビナートを建設する」と公言して以来、台湾の政財界を巻き込んだ大問題に発展した。この書簡は約半年にわたる問題に終止符を打ち、台溥政府も「歓迎」の意を表した。
 王永慶会長が「大陸プロジェクト」を公表したころ、台湾企業の大陸ラッシュはすでに始まっていたが、その大部分は中小企業で投資規模も一件あたり100万ドル程度でしかなかった。大企業による本格進出はなかったから、台湾のトップ企業の突然の大陸進出発言が内外に大きな波紋を起こしたことは当然だった。
 台湾プラスチックの決断は早かった。台湾政府への意向打診もないまま、厦門市や北京政府との直談判に乗り出した。厦門現地事務所の設立、「海滄台商投資区」への進出先決定といったように矢継ぎ早に単備を進めた。海滄地区は、厦門市政府が重化学工業誘致を目的に基盤整備を図っており、王永慶会長自身も直々、建設予定地を訪問、中国側から70年の無料賃貸の約東まで取りつけた。
 多くの台湾財界人は88年あたりから香港や東京などを経由、大陸を訪問、中国政府要人とビジネスの可能性を模索している。しかし、あくまでも隠密行動、台湾企業トップの大陸訪問を王永慶会長のように公表したのは初めて。こうした行動はいかにも王永慶会長らしい。
 台北でインタビューに応じたある大企業トップはなぜ隠密でなければならなかったか、背景を説明した。記念写真を見せてながら「88年の秋に大陸を訪問、北京では趙紫陽前首相や李鵬首相らに歓迎された。しかし、大企業トップといえどもそんな要人と会った事実が分かれば投獄されることは確実だった。一緒に扱った写真も東京事務所に隠した置いた』という。大陸訪問はあくまで「探親」に限られていたからだ。
 王永慶会長は北京での鄧小平との会談、石油化学コンビナート進出への全面支持』の確約もとり、70億ドルという巨大な資金調達についても北京政府からその三分の一の資金協力の約束を取りつけた。
 王永慶は生粋の本省人(戦前からの住民)だ。苦学して大学を卒業、戦後、プラスチック成型の事業化に成功、石油化学工業を中心とした巨大なコングロマリットを作り上げた。台湾の松下幸之肋とも呼ばれている台湾財界の立身伝中のひとりだ。最近では米国テキサスの化学会社を18億ドルで買収するなど、グループの多国籍化を図っている。
 台湾プラスチックの大陸進出は、国内産業の空祠化と反公害運動の激化といった台湾の経済環境の激変を抜きには語れない。中小企業だけでなく大企業といえどもこの環境の激変への対応を迫られた。85年の円高以来、台湾経済は一時的には為替面での比較優位を背景にかつてない活況を呈した。しかし、活況は長くは続かなかった。米國からの為替調整の圧力に加え、賃金の高騰、民主化の進展を受けた公害反対運動が激化した。台湾南部の高雄市では石油化学コンビナートに住民がなだれ込んで機械を破壊する事件が起きるなど特に化学工業への住民の反発は厳しかった。
 当時台湾プラスチックは新しいエチレンプラントの建設計画を進めていたが、公害に対する拒否反応があまりにも激しかったため、88年1月王永皮会長自ら記者会見で「建設計画の白紙撤回」を発表、今後台湾でのプラント増設は行わないことを約束させられた。
 こうした事悄を背景に台湾プラスチックは、海外でのプラント建設の遊を模索した。一時期はフィリピンへの進出も検討されたが、その後の大陸へ進出する台湾企槃が急増、自らも大陸へ進出する構想を打ち立てた。
 永慶会長によれば「プラスチック成型や紡織産業、靴製造など化学品を多用する企業が台湾から大陸に脱出してしまった。下流郎門がいなくなったのだからわれわれ上流郎門が大陸に進出するのは当然』ということだった。
 結局、今回の大陸進出は断念したが、台鴻の多くの石油化学関係者は「あくまで今回は断念ということで王永慶会長は大陸進出をあきらめたわけではない。次期プラント増設の段階では厦門市での事業展開は十分あり得る』とみている。厦門市としても「海滄台商投資区」の目玉事業として台湾プラスチックの進出を考えてきた経緯もあり、新たに誘致工作に乗り山すことは確実だ。

 ▼アジアへ拡大する台湾リンケージ
 台湾と大陸との交流拡大は、海峡をはさんだ地域の経済活性化にとどまらない。福建系の華僑のリンケージを考えると、さらに東南アジア一帯の大きな広がりを持つ経済活動への発展の予兆とみることもでいる。
 台湾投資の80年代後半の対外投資の勅跡をたどると、福地省はもちろんマレーシアとインドネシア、フィリピンと実に広範囲にわたる。そして昨年からはベトナムにも浸透しつつある。NI ESに続き、今まさに経済成長のテイクオフを始めた地域だが、いまや台湾企業の進出がそうした国々の生産活動を刺激、活力を引き出しているといっても過言でない。
 東南アジアの『華僑』が広東系、潮州系、禍廸系、客家系といった出身地別の強い絆で結びついていることは広く知られている。出身地の違いは国が違うに等しく、言葉も通じなければ、習慣も途っている。
 タイは潮州系、シンガポールは広東系といったぐあいに経済的な相互扶肋関係が確立している。ただ、そうした絆はあくまで国内的なもので、これまで国境を越えた形で結びつくことはまれだった。
 しかし、台湾企業の東南アジア進出で華僑の出身地による絆は、一挙に国境を越えたリンケージへと発展している。このなかで台湾を筆頭とした福建系の言語圏が経済的に形成されていることはあまり知られていない。俯瞰すれば「台湾リンケージ」の浮上が眺められるはずだ。
 台湾企業がいわば台湾人の故郷ともいえる対岸の福建省へ向くのは分かりやすい。台湾企業の海外進出は、為替高や人件費の高騰により対外競争力を失い、東南アジアに安い労働力を求めたと考えればインフラ整備が比較的進んだマレーシアに進出するのも理解しやすい。しかし、なぜタイでなくフィリピンだったりインドネシアなのかは説明が実はこの数年進んだ台湾資本が選んだ投資先のほとんどは福建系の言語圈なのだ。
 台湾企業の進出先における華僑の出身地別割合をみると、インドネシアは華僑人口300万人のうち実に55%が福地系。マレーシアも200万人の華僑のなかで45%を占める。フィリピンにいたってはなんと90万人中90%が福建系となっている。
 ベトナム在住華僑に占める福地省出身者の割合は20%と低いものの、ホーチミン市のショロン地区に集中的に住んでおり、同市の経済活性化もこのショロン地区が核となっている。
 華僑社会は地綴、血縁をもっとも重要視し、投資先を選ぶ大きな要素もやはり地縁なのである。台湾人は日常、福建省の厦門を中心とした言葉である閩南語を日常的に使用している。まさにインドネシアやマレーシア、フィリピンといった国々の華僑杜会は閩南語が通用する地域なのだ。
 台湾の現在の人口は2000万人程度だが、対岸の福建省の人口は3000万人。東南アジアに福地系華僑は800万人と推計されている。合計すると約6000万人である。この数字は戦前の日本の人口よりやや少ないが、イギリスやフランスを上回り、統一ドイツの大きさとほぽ同格である。
 アジア経済のボーダーレス化がさらに進み、台湾企業の投資が今後とも東南アジアへ拡大して現地華僑との結びつきを強めることになれば、好むと好まざるを間わず南シナ海を囲んだ6000万人を擁する「台湾リンケージ」経済が確立する可能性があるといえばいいすぎだろうか。

 ▼探親政策から3年足らず
 政治的に対立する台湾と大陸の実質的な経済交流は87年11月の台湾政府による「探親」解禁政策に始まる。いわゆる親族訪問が開始され、台湾赤十字の発表では889年末までに49万人が大陸を訪問した。しかし、申請なしで大陸へ行く人も多く、中国側統計では昨年10月までに大陸を訪問した台湾人は「180万人を超えた」(厦門市政府)。
 中国側の数字が正しいとすれば、実に台湾人のほぼ10人に1人がこの2年間に大陸を訪問した計算になる。2000万人という人口規模の台湾にとってまさに“大移動“ともいえるもので、それこそ政治経済の根幹を揺り動かすに値する人数だ。
 一方、投資面でみると、厦門市台湾事務弁公室が発行している「厦門経済特区投資指南」によれば、90年5月時点での外国からの投資(批准ベース)は820件、金額18億5000万ドル。そのうち台湾からの投資は301件、7億8000万ドルにも上る。
 今回、厦門市外商投資企業管理局での聞き取りでは、外国投資(同)は90年10月末で897件、24億ドル、既に生産を開始している企槃は486件。このうち台湾10件、9億4300万ドル、生産を開始始をしているのは100社という。
 とにかく人によって統計数値に違いはあるが、大体、90年末時点で台湾から厦門市への投資(同)は400件前後、約10億ドル弱とみてよい。これは台湾の大陸投貧の全体の3分の1程度に上り、厦門市からみても外国からの投資に占める台湾の割合は年々増加、昨年は50%以上になっている。投資状況だけからみても、いかに台湾と厦門市との補完関係が強まっているかが分かる。
 一件当たりの投資規模は年々拡大しており、まだ4分の3の企業がこれから生産を開始することを考えれば、厦門市での台湾企槃の投資申請がたとえ完全に止まったとしても今後、3、4年ぐらいは厦門市の経済成畏への貢献に支障はないとみられている。
 いずれにしても現在、生産を開始している外資系企業の厦門市にもたらすGDPは市全体の工業生産高の50%を超えており、全市の輸出総額の過半を占めるようになっている。その投資の中核的存在となっている台湾企業への期待の大きいかが窺われよう。
 台湾と大陸との貿易の推移をみると、89年で往復34億8200万ドル。いまだに間接貿易という形態しか認められていないが、中国が改革解放政策に転じたのをきっかけに拡大傾向をみゼ、るようになった。双方による間接貿易は中国の貿易相手国として第6位。台湾にとっても第5位にまで成長している。特に85年の台湾政府による規制緩和以来、急カーブの伸びを示している。このほか、海峡での密貿易も引き続き活発で、これを含めると貿易面での相互補完関係は統計以上のものがあるといわざるをえない。
 ただ、貿易のバランスは台湾にとって圧倒的な出超構造になっている。台湾からの輸出額が大きいのは、大陸への投資の増加に伴って産業機械や繊維原料といった生産整備や中間原料が大陸へ大量に輸出されるようになったことに加え、大陸での消費ブームに併せて台湾製の家電製品やオートバイなどの需要も増えているからである。
 一方、大陸から台湾への輸出額があまり大きくないのは、ひとつには大陸で台湾企業が生産した加工製品が主に日欧米向けに輸山されているという状況がある。大陸向け投資が増えれば増えるほど双方の貿易インバランスが拡大するという構造に関しては、中国側は一応の懸念を表明している。しかし、台湾の投資が石油化学、繊維原料といった産業の上流部門にも拡大すれば、こうした構造も徐々に解決することは容易に想像され、現在は中国も各国との全休の貿易でバランスが取れればよいという考えのようだ。

 ▼揺れ動く台湾の大陸政策
 1990年は台中間の人的交流で画期的年だった。7月には北京で『海峡両岸貿易投資セミナー』が開催され、台湾から500人ものビジネスマンが参加した。また9月にはアジア大会へ台湾選手団が大挙して北京に合流した。台湾人による大陸肪問は88年11月に始まったが、今回は政治的お墨付きを得た初めての大陸入りだった。台湾プラスチックの大陸進出が騒がれた最中の90年3月、台湾政府は人的交漉に関する新政策を発表、「探親」に加え4月から『考察』「参観」「覧会」といったビジネス目的の訪問も正式に認めた。
 同セミナーの台湾側推進役だった張平沼立法院議員は「これまでは黙認でしかなく、見つかれば検挙されるビジネス目的の大陸訪問が解禁となったことで、心情的な圧迫感がなくなった。貿易投資セミナーは双方から700人が参加した台中間の戦後最大のイベントとなって、大陸ブームは一気に加熱した。』とこの措置を歓迎している。
 ただ。台湾政府の政策の揺り戻しもあった。9月、10月に予定されていた第二弾、第三弾のセミナーは政府の横槍が入って中止を余儀なくされた。メンバーに対して政府から『ブームを冷却するよう要請された』というのだ。
 続いて10月、台湾政府は大陸への投資に関して軍事とハイテク郎門を除く3353品目に制限、経済部投貴處の許認可制にした。台湾プラスチックの構想のように巨額な投資案件ならともかく、台湾には一人当たり年間500万ドルまでの外貨持ち出しが自由という緩やかな為替管理しかない。
 台湾政府でさえ「家族4人で海外にでかければ2000万ドルまで持ち出せる。中小企業の投資には十分すぎる金額だ』(経済部)としており、大陸へ投資しようとする企業にとって、新指針の実害はあまりない。しかし、中国では「なぜ投資品目を規制するのか。台湾当局が企業の対中投資に統制を加え始めた」(厦門大学台湾経済研究所)という反発も生まれている。
 続く11月には台湾の経団連会長とされる辜振甫・工商協退会理事長の音頭取りで民間経済団体からなる『海峡交流基金会』が設立された。大陸との初めての交流窓口となるもので政府の大陸委員会の委託を受けた事務代行機関である。いわば日台間の「交流協会」や「亜東関係協会」のようなものといってよい。
 これに呼応するかのように大陸側でも組織改革が実施された。党と政府の対台湾関係事務所が統合され、国務院の台湾弁公室となった。その主任には改革城で台湾との経済交流で実績を上げた福建省省長の王兆国氏を選出した。
 台湾政府は、火陸ブームが一人少きをすれば国内産業の空洞化が進むだけでなく、台湾企業が中国側に人質としてとられ将来の対大陸政策が束縛されるとの懸念を持っている。昨年採られた一連の大陸との経済関係の緩和措置は、このため民間の暴走にはブレーキをかけながら、なんとか政府主導による統制のとれた交流拡大を図る考えを明示しているようでもある。
 厦門市は長年、3キロしかはなれていない台湾領土の金門島と対峙する軍事上の前線基地だった歴史を持つ。台湾海峡は、大音量の拡声器を使った宜伝合戦と大砲による相互威嚇が日常化する空間だった。
 その厦門市がいまや台湾との経済交漉の最前線基地と化しているのだから歴史は皮肉なもの。天安門事件以降、各国の対中投資意欲が減退した中で、厦門市側が「厦門市だけが成長のペースダウンを免れた。これも台湾からの投資ラッシュのおかげだ」(江平副市長)がエールを送れば、台湾側も「大陸とは相互保管の関係にある」(台湾経済郎)と応える関係だ。台湾海峡をはさんだ台湾と福建省がアジア内でひとつの経済圏として一体化するのは時間の問題のようである。